縫い合わせ





 ほぼ気を失って過ごした地下牢の中の記憶。冷たい石壁とカビの匂いは一生嗅ぎたくない。カビよりも酷いのは汚物の異臭だ。隙間は出入口しか無い故に匂いは溜まりきっている。監視がたまにバケツで檻の外から水をかけて奥の排水溝に全てが流れて行くようにしているが、鼻が狂れるまでに時間はかからない。


 傷口に染みる泥と、粗末な食い物。



「ナル君」


 甲高い光。


「死んでるかと思った」


 薄く開けた目に、檻の向こうでボロボロと泣いているタイセがいる。とても不自然な光景だ。貴族が、薄汚い地下にいる。ああ、俺が閉じ込めたんだったっか。リリスに引き裂かれた死体で血の海になった部屋に隠しておいた。だから泣いているのか。いや、リリスはもういないはずだ。ここはディズの屋敷じゃない。あそこの地下はもっと綺麗で、おぞましい。


 血を失い過ぎたか、やけに寒い。少し眠くなってきた。目を瞑ればもうこの世界を見ることは無い気がする。


 あぁ、せっかく。


「何?聞こえないよ」


 痛みを感じるこの世界に生まれて、初めて良かったと思えたのに、今が最後になるのは惜し過ぎる。










 死んだと思って目を開けた時に目前にいたのはラキタスだった。


「ここは地獄か」


「殺すか?」


 激痛の走る腹に拳を捩じり込まれ、今まで受けた拷問の中でも死ねそうな感覚を味わされた。


 何処かの客室らしい場所で、周りには得体のしれない道具が立ち並んでいる。体を起こせば体中に布でしか見たことがないような縫い目が走っている。ラキタスは消毒液の匂いをさせた瓶を開けて俺に頭から全身にぶっかけた。


「よく死んでないもんよね。あんた、つくづくシブトイわ。ミア姫がとにかく生きていたら何でも良いって言ってたけど、それが難しいんだっちゅうの。奴隷なんて治療する城医者いないんだから感謝しなさいよね。まあ、生の実験体欲しかったから丁度良いでしょって事で預かったんだけど。じゃなかったら面倒くさいからお断りだし?」


 いっそひと思いに殺せっ。


 失神しかけて目の前で光がバチバチと弾ける。声も無く、とにかく生存本能だけでラキタスが次に手にしたガーゼを持つ手を鷲掴みにする。


「お前、まだ、医者じゃ」


「私を誰だと思ってんの。努力する天才よ。やれるに決まってんじゃない」

 
「今まで、他に」


「あんたが初めてよ。光栄に思いなさいよ」


 両手でラキタスと手を組み行動を奪ったまま睨み合う。


「何よ、大人しく寝てなさいよ」


「ミアを呼べ、殴る」


「実験体うんぬんや、あたしを推薦したのは馬鹿タイセだから。あいつ、姑息な交渉は得意だから頼み方を心得てるわよね。むかつくけど別に断る理由もないし、帰さないわよ」


 何時間か格闘した後、縫い目から血を流しながらベッドに押さえつけられてラキタスいわく治療をされた。この傷で時間が稼げただけでも健闘した方だろう。自分をメッタ刺しにしたのと同じくらいは悲鳴をあげるはめになった。


「涙目になってやんの」


 こいつ、いつか泣かす。


 その後の話ではるが、奴隷の俺が他に行く当てを持つわけもなく、嫌々ではあるが後も結局はラキタスに治療を頼むはめになる。この、将来医者になるらしい拷問女に。


 俺は結局、こういう人種から逃れられない運命らしい。










 あんな乱暴な治療でも器用にラキタスは傷口を塞いだ。客室から追い出され、治療に通う奴隷の俺が出入りしやすいよう離れの治療室をラキタスが作って、縫っていた傷口から糸を抜いて。膿んで月日のかかった部分もあったがおおかたは包帯やガーゼが取れてきた。治療室で本を読んでいるラキタスが、何かを試そうとするたびに殴り合う以外は傷を増やすこともない。


「神経が切れてるからだわ。考え無しにザクザクいってこれなら悪運いいんじゃない?繋がってるだけって感じね。2度とまともには動かないわ。でも今のところはっきり死んでるの、その指3本だけみたいだし喜べば。言っとくけど失敗したんじゃないから。元から向きじゃなかったけど、これからも剣でそれなり以上の連中を相手にするのは無理ね」


 掌を見下ろして握ったり開いたりしてみるが、動きがついてこず、最後まで握り込めない指が3本。痛みと痺れに耐えて渾身の力で拳を作っても左の手のは外側が緩んでいる。物をつかんで振り回すには向かないが、素手での戦闘なら問題無く武器足りえる。


「どれくらいで痛みがとれる?」


「あんたが痛くないと思えば今すぐ痛まないわね」


「痛み止めを寄こせ」


「あんた痛がりにも程があるわよ。自分であそこまでメッタ刺しに出来るんなら我慢しなさいよ」


「痛いものは痛い。俺は痛いのは大嫌いだ」


 ミアのためでなければ誰があんな事をするか。


 死ぬならもっと楽な方法を探す。


「痛み止めの場所ならいい加減に覚えたでしょ。自分で適当に持ってけば。今日は終わりよ。あぁ、肩こった」


 服を着て、薬がバラバラに積まれているテーブルの小山を探っていつもの薬を探す。ラキタスは腕を回して得物にしているらしい鈍器で自分の肩を叩いてソファでだらしなく伸びる。見つけた薬を出して2粒丸のみする。苦い。水差しが無いので花瓶の花を抜いて溜まっている水を飲む。


 そういえばと思いラキタスを振り返ると、俺の手元を見てラキタスが舌を出して顔をしかめている。どうでもいいので口を開く。


「指のことだがミアとタイセには言うな」


「ナルナ、あいつら好きねぇ。何、あのお姫様だけなら他の男共も骨抜きにされてるから分かるけど。タイセも確かにアレな奴だけど。あんたの面で可愛いもの好きとかウケるわ。確かに後遺症がどうのなんて言ったら面倒そうだから黙っとくけど」


 城はまだそれなりに慌ただしいらしい。


 ミアも相当の怪我を負っている。国の全総力をあげて治療されているだろうが、裏で俺やゴセルバを擁護するために動いているとタイセから聞いた。今回のことでミアが護身術を過剰に会得しようとしている行動も黙殺される流れだとかだ。その内、近いうちに俺も復帰することになるから用意しておくようにダンドロが言ってきた。


 俺は牢屋から出て、しばらくラキタスの拷問を受けて過ごしていたが、その後はダンドロに引き取られている。ゴセルバは親戚の屋敷に。


 ゴセルバも同時期に城へ戻ることになると。あれから顔を合わせていないが、それなりに城での風当たりはきつくなるだろう。それともミアからの信頼もあり貴族ゆえに問題は軽くなるのか。


 少しだけ垣間見た女の顔が脳裏に過ぎる。


 ミアの知り合いだと言った。


 花瓶から抜いた花を口元に寄せると花が香る。


 騎士に復帰する前にさっさと傷を治さなければならない。痛みは薬でどうとでもするのだから。


 花に噛みついて甘い蜜を含んだそれを呑みくだす。


「あぁあ、食べるし」


 タイセもたまに顔を見せにくるとはいえ、ラキタスとダンドロの顔ばかりだと気も滅入る。










 呆れた目で見下ろすダンドロ。


 こいつのこれ以外の目をあまり見たことが無い気がする。それは隣で腫れている顔を冷やしているラキタスも同じらしい。いつもよりボロボロになって治療し合っていたら遅くなった。遅くなったら迎えに来た。通りかかったついでらしいが、見つかって説教を喰らうはめになった。


「ナルナは言わずもがな、ラキタス、お前が周りになんて言われているか知っているか?ホクオウ嬢とは別の意味で問題視されているんだぞ」


 ラキタスがムッとする。


「何よ、ダンドロはホクオウのあの女はあたしと違って素晴らしいだ、なんだ褒めちぎるくせに。姫だってきょうび戦闘訓練許可されるのに、あたしは駄目だっての?」


「ラキタスが悪しざまに言われるのは俺も辛い。それからナルナ!こんなのでも相手は女だと言っているだろう、顔を狙うとはなんだ!顔とは!キズものになったらどうしてくれる」


「責任をとればいいんだろう」


「俺の婚約者だ、娶るな」


 俺の思考回路が止まる。


 ラキタスを見て、ダンドロを見る。


 婚約者。


 俺の記憶が正しければ、ああいう意味だったはずだが、まさかこれとこれがか。同じような言葉で違う意味かもしれないが、何がどうなってだ。


「傷がついても問題無いでしょ。どうせ私が医者になったら破棄になるわよ」


「それは続けてもいいから暴れまわるのは止めろ。医者になるのになんで体まで鍛える必要があるんだ」


「医者は独立するためで、鍛えてるのは負けたくないからに決まってんじゃない」


「婚約すれば俺の屋敷は今まで以上に安全にすればいいし、ラキタスにつける護衛も精鋭を用意すればいいだろう。お前自身が強くなる必要が何処にあるんだ」


「しつっこいわねえ。んなもん、あたしが後ろで守られてるタイプに見えんの?え、見えるわけ、あんた。だいたいねぇ」


 俺は動いていいのだろうか。


 言い合いは続く。


「・・・・・・」


 寝とくか。










 ラキタスという女は俺の運命で重要な部分に関わらない。


 生死に関することでは治療をしたり、何かと顔を出すがアレはアレの道を突き進んで誰の運命にも関心が無い。基本的に大きなところで誰も弄ぼうとか利用してやろうと思っていないのかもしれない。突き進んでいる道でたまにすれ違ったりかすったりして、俺の場合なら俺に影響を与えて、与えるだけで何食わぬ顔で通り過ぎて行く。


 もしも、これが俺の女神だっとしたら。あるいは女神がいなければだ。


「惚れていたかもしれない」


 あの強い心に。


「ナル君」


 話を振った張本人のタイセが、ソファで本を読んでいた顔をあげて顔をしかめる。本をテーブルに置いて立ち上がり、タイセは俺の元まで来て飲んでいた花瓶と花を取り上げて溜息をついた。


「かなり趣味悪いよ」


 もしもの話だ。


 なんであれ、全ては紙一重。



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