矢印



 何も無い場所だった。


 空は青色、地は土で覆われている。


 その大地をある老人が歩む。


 何処まで行っても土ばかりかと言えば、そうでもなく、途中で石のタイルが敷き詰められた道がずっと先まで続いているのを見つけた。老人はその道の上を歩き始めた。


 延々しばらく道を行くと先に分かれ道がある。アスファルトで舗装されている道と木の道。その間には文字も案内も記さない矢印だけの看板があった。何に続いているのかさっぱりわからぬ道だが、老人は歩きやすそうなアスファルトを選んだ。


 この先に何があるかは分からないが、老人はやはり歩き続ける。そこに意味などはない。目指す場所などありはしないのに、何も無いので唯一そこにある道を進んでいく。


 するとまた分かれ道があった。


 はてさて、どの道に進んだものか、今度は2つと言わず9つも道が地平線の向こうまで伸びていた。その道はカラフルなペンキで色分けされたフローリングの道。矢印がやはりあるのだが、何処に辿り着くのかはやはり記されていない。


 悩んだ末に老人は自分の好きな紫を選んで歩き始める。ドンドン進んで行くわけですが一向に先は見えない。


「私は老人であるのだから、もっと休ませてくれればいいのに。どうして食事を出す人も寝る場所を提供する人もいないのだろうか。年をこんなにもとったのに」


 膝が痛み、腰が痛み、とても疲れた老人は、ふと道の端にいる青年を見つけた。


「ちょっとすいませんが、私はこの年なのでもう動けそうにないから連れて行ってください」


 青年は道に座り込んでいて、泣いていました。


「可哀想に、助けてあげたいのですがもう何日も何も食べておらず、私自身も足を痛めうずくまっているところなのです。歩ける足がおありでしたら、どうぞそこまで頑張ってください」


「こんなに辛いのに何も分かっていない。何もしてくれない。ああ、この世界は病んでいる!!」


 青年は泣きながら足を引きずって老人を背負い道を歩き始めた。なので老人が歩くよりも早く道は分かれ道まで到達することができたのだった。しかし青年は再びそこで座り込む。


「もう足が引き千切れそうです。貴方には足がある。どうぞ好きな方へお進みください」


「こんな場所で放り出すとはなんて薄情な。老いさらばえれば誰しもが辛くなるというのに、なんて酷いことを、ああ、なんて酷い」


 青年は真っ青になりながら老人の背を押して歩き始めた。老人も歩かねばなりませんでしたが1人で歩くよりも断然に楽だった。どんな道を選んだのかは詳しく見比べなかったので分からないが特に矢印があるだけなので老人にこだわりはない。青年が決め、青年が責任をとれば良い。



 分かれ道の旅に青年は別れを告げるが老人は体の辛さを少しでも取るために青年が必要だと説教して歩かせていた。叱ればいくらでも青年は老人を助けて歩ける。なのにすぐに根をあげて放り出そうとする青年に腹が立って老人は青年を怒鳴りながら腕を引かせた。


 そして幾度目かの矢印の看板の所で、青年はやはり座り込んでなかなか動こうとしなくなってしまった。


「いい加減にしなさい!ちゃんと真面目に人を助ける気があるのか?」


 青年は座り込んだまま何も言わず、そのまま倒れて動かなくなった。もういくら怒鳴っても叩いても言うことをきかない。老人は仕方なく矢印の看板に目を向けた。次は何本の道が続いているのか、どちらに進もうか、矢印を見ると、たった1つだけの矢印が大地に向けられていた。


 行き止まりだった。


「なんと役立たずな。これではあの長い道をまた引き返さなくてはいけないではないか」


 ふと、矢印の上に真っ白なカラスが舞い降りた。それはもしかしたらカラスではない鳥かもしれなかったが、老人はそれに思い当たる呼び名を知らなかった。


 カラスは言葉を喋りだした。


「ああ、可哀想に。こんなに弱っていたのに人が良いばかりに。ああ、辛かったろうに。なんて礼儀も慈悲も知らない老人と出会ってしまったのだろう」



「何を言うのか、この化け物カラスめ。私だって死にそうだというのに。辛い思いをしていくらも歩いてきたというのに。こんな場所に放り出されている老人が一番辛くてしんどいに決まっているというのに。助けるのが当たり前のところを、この青年は何度も身捨てようとするなんて。近頃の若者は礼儀知らずで労わりの心を持たない。人の辛さを知ろうとしない!」


 白いカラスは笑いだす。


「ご老人はさぞかし若い頃に弱気を助け、年輩を支え、人助けに励んでいたのだろうな。だが、この初対面の若者はご老人に恩を受けていたろうか。感謝の言葉もない。賃金もない。更にはこの若者は貴方に何もしてあげなかった極悪人だ。ああ、世界は病んでいる。誰が病ましたものなのか。ああ、いつから病んでいたのか。そもそもこれが病みであろうか。世界にはいつでも、慈悲を持つ人間と、非常な人間が同じ数だけいたような気がする」


 老人は、いつの間にか足が砕け散りそうなほどに痛い事に気づいて座り込んだ。驚いて白いカラスを見上げると、白いカラスの目に映った老人の姿はもはや老人などではなく、とても若くなっている。



「ここの案内人は今日から貴方になった。ここの道に親切な若者がいるか、非情な若者がいるかは、いつも大きく違いがある。だが心配はなさそうだ。人の辛さをよくご存じの貴方は感謝の言葉など期待もせずによく人を助けることだろう。昔と同じように、あるいは先ほどの若者なんかよりも」


 白いカラスは飛び立っった。


 更には青年が倒れていたはずの場所には誰もおらず、新しい道が伸びている。何処かに伸びる道の先に何があるかは知れない。ただ、引き千切れそうな痛みで苦しみながら、新しい道の向こうから誰かが歩いてくるのが見えてくる。


 疲れた様子をみせた今にも倒れそうな老人だった。老人が歩いてくる。


 そして近くまできた老人は声をかけてきた。


「どうなすったのかね、お若い人。大丈夫かい?」


 空は紫色。



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