シュードラ1





 飢えだ。


 世界には敵と獲物があった。


 瓦礫と地面の裂け目をかいくぐって石を舐めて凌ぎ、泥水を啜って雨の日に歓喜した。


 その内、一部の敵から言葉を盗み、叩きのめされる内に武器を使う事を覚えた。やり返されたり獲物を奪い返されないために逃げる事と殺す事を覚えた。


 物心ついた頃の記憶はあいまいだが強烈に俺の根底にねっとり渦巻いている。


 弱った敵が喰える事にも気づくのは遅くない。血と肉を啜った餓鬼だけが生きられる。そこがスラムという場所だから、だから、常に俺は怯えていた。


 生傷だらけの白い綺麗な手で差し出された物を、あの時食べ物だと俺は理解していただろうか?


 あれは、思い返してみればパンだった。弱者であるスラムの餓鬼は雑草や死骸しかしゃぶった事が無かったんだろう。野生動物に人間の餌をやると人を襲うようになるという。負の感情は因果応報に還るというくせに不条理が世の真理とは皮肉なものだ。


 譲るとか、あげるとか、人に物を明け渡すという意味合いの言葉はスラムで聞かない物だったから理解できなかった。パンを渡そうとした彼女は、きっとそういう意味の言葉を言ったんだろうと記憶の表情から思う。










 鳥を捕らえたところで敵に襲われ叩きのめされた。崩れた瓦礫を投げつけられて背を強打して倒れた瞬間に蹴りをしこたまぶち込まれた。軽くて細い貧相な俺はその辺に転げて血みどろになりながら必死に逃げた。スラムの端を超えて俺は勢い余って貧民街の境界線を越えてしまった。


 薄汚い道の真ん中で唾を吐きかける裏町の連中。体に布をまとって寒さを凌ぎスラムの連中のように食事を奪いはしないが、石を投げたり悪意のある視線や言葉は投げかけられてくる。弱者の俺が牙を剥けば鋭い刃物で斬りかかる。牙を剥かねば嬲るために笑って追われる。どちらにせよ遊ばれて殺される。たまにスラムにもやってきて狩りを楽しむ。やられた死骸のおこぼれを食らっていた俺達は、ただ自分が的にならないように潜むだけ。


 血が抜けて弱ってしまえば逃げる足も鈍る。貧民街、通称では闇街か。追われ、見つけた小さな隙間に飛び込んで本能のまま潜み続けた。溢れる血を舐めても、止まりようもなく苦痛に喘いだ。


 だから同じ空間に少女が現れた時、もう満足に戦えない自分の死を直感した。このまま殺されるだろう。怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。差し向けられた何かを叩き落として白い腕に噛みついた。精一杯唸って威嚇して。本当にもう力は残っていなかったから、歯形がしばらくアザになる程度だった。


 普通の少女なら狂犬を前に逃げ出していただろう。


 その少女は普通ではなかったらしい。俺が弱るまで歯を食いしばって我慢して、動くのも億劫になって弱り切った俺を手当して、こっそりどこかから綺麗な水まで用意してきて飲ませてくれた。手際よく慣れたものだ。


 あの当時の俺に何が理解出来ただろう。


 生まれ落ちる前には女の片腹でぐらい感じたろうか。


 去っていった少女が残した難解な言葉を理解する知能は無かった。ただ言える事は俺を生かし、人にしたのはあの女だ。


 俺にまだ名は無かった。









 
 白いテーブルクロスに伸ばした俺の手がフォークで縫い止められる。血がテーブルに広がる。あれを使って料理を食えと口うるさい方が言う。だがあれは武器だと思っている。


「行儀が悪い駄犬だねぇ。僕の物に手を出したら熱した鉄板に縛って転がすよ、ナルナ」


「ウゥゥゥ」


 嘲笑いながら皿の上から肉をフォークで床に捨てる。


「這いつくばって食べな」


「リリス、お前はまた何をやってるんだ」


 呆れ顔で部屋に入ってきた口うるさい方の少年に、顔だけはそれそっくりな性格が悪い方のリリスが愉快そうに指を鳴らす。いわく双子というものらしい。意味は知らない。


「ペットで遊んでるんだよ、ゴセルバ」


「ナルナ。食事は後で部屋に用意する。浅ましいやりとりしてないで勉強に戻れ。僕だって城での勉強と少年騎士の仕事で疲れてるのに時間を取ってやってるんだぞ。日中その調子でリリスと遊んでたんじゃないだろうな」


 床の肉にかぶりついている俺の口元にゴセルバの手が伸びる。


 奪う手だ。


「あ、いったあああああ!?」


 片手を肉から離して腕に爪を食い込ませて噛み切るつもりで噛み閉める。スラムの連中より肉付きが良い。


 食っちまおう。


「駄犬の口元に手をやったゴセルバが間違いだねぇ。畜生の物を取り上げる時はこうだよ」


 髪が容赦なく捕まれて背中から引きずり倒された。口が勢いで開いて腕を手放してしまう。それでも肉を手放すものか。口にくわえなおして頭上を引っ張り上げるリリスの腕を両手で掴むが、髪をつかんだまま頭を左右に振られてそれも阻まれ、いくつかブチブチ髪が千切れる音がする。


「離せ!!殺す!!」


「僕のゴセルバに次噛みついたら腕と足をもいで弱火で炙り殺そう」


「2人共止めろ!ナルナもちゃんと食事を用意してやるから暴れるんじゃない!」


 血を流しながら一方的に痛めつけられる俺に、汚らわしいという言葉が耳に入る。周りに奇妙に同じ間隔で立つ女と目が合った順にそらされていく。


「坊ちゃま方、湯殿の準備が整いました。奥様より食事前にペットに触れた身と服を清めてくるようにとのご伝言を預かっております」


「どうせ食後もこれで遊ぶんだ。何回湯殿に入らせる気だか。僕を煮てサバトのディナーにでも出す気かい?」


「そうされないために良い方法がある。ナルナを綺麗にして汚れないように躾るんだ。また手にフォークなんか刺したな、リリス。フォークを握らせるだけで僕が一苦労だ」


 服を奪ったり熱い湯に沈める気らしい。少しぐらい汚れていた方が場に馴染んで潜みやすいし、石けんなどつけられたら体中がしびれて痛み出すというのに口うるさい方が身綺麗にしてこそ人間の第一歩と言いやがる。


 ゴセルバの言う事はいちいち意味不明だ。闇街の連中は臭いし汚かったが人間だった。スラムでは水はあんな風に流して使うものではなく喉を潤す命そのものだった。貴族の屋敷で馴染んで潜みやすくするためには臭いや汚れは邪魔ではあるが、俺はこんな所にいたくない。いつか抜け出すためにも、身綺麗にしていては闇街に潜めない。理解する所か悪い点しか見当たらない。


 まだ他人に言葉を伝えるのが苦手な俺は口で表現こそ出来ないが、感じる事は出来る。


 この双子は、貴族という連中は、俺から一番理解し難い者だ。










 大層な塀の豪華な飾りをつけた屋敷に食料を得るために忍び込んだ。大きな家程に人に見つかる確率は低く攪乱するのに容易い。小さい家は忍び込んで1秒で見つかり盗む暇も無く追い回されて割に合わない物しか手に入らない。


 スラムから脱出して闇街に住むようになった俺は賊となった。


 ナイフを口にくわえ、窓から見ている見張りから身を伏せて窓枠にぶら下がり、頭を引っ込めた瞬間に壁を蹴って窓に逆上がりで足から飛び込む。賊となってからは武器を使う事を覚えた。種類は様々だったが、もっぱら慣れた素手とナイフが俺には合っていた。


 死にかけた後すぐだ。賊の掃き溜めである裏町、通称で言うところの闇街に俺はあの時そのまま住み処を変えた。相変わらず路上や木箱の陰がそれではあったが、変化と言えば言葉を片言でも喋れるようになった所か。滅多に無かったが誰かとコミュニケーションを取ることさえするようになった。


 闇街に住めば暴力を生きるためだけでなく人をいたぶるために振るう連中もいる事を死ぬほど思い知らされた。スラムでは単純な生存競争だったが、ここでは恨みや妬み、個人を特定した攻撃もあった。ドス黒い。


 その日を生きる事こそ俺の全て。


 なのに俺は闇街から離れられなかった。食い物はスラムより多かったが、危険はあそこより大きくなり割に合うかは能力次第。生きるよりも執着する事なんて何も無かった。だったら悪の巣窟を練り歩くマネは矛盾しているだろう。だが、離れられなかった。


 俺はあの白い差し出された手を探していた。見つけてどうしようとまでは考えていなかったが、ひたすらもう一度、言葉を返せるようになった俺にもう一度チャンスをと願った。なんのチャンスなんだか。屋敷から食料を盗みにいかない間は闇街をさまよい続けた。だが、いくら歩き回ろうともあの女を見つけることが出来なかった。


 俺が忍び込む屋敷はその内、度を超えていく。いつか町の中心にそびえる一番でかい屋敷にも忍び込んでやろうと企んでいた。そこに見ていたのは食料ではなく、そうだ、そこには真理があるような気がしていた。女からただ生み落とされただけの肉塊の自分の意味を知るに足りる、この日々の苦痛を満たす何かが。


 馬鹿らしい。


 狂犬と闇街で呼ばれる程度には、危ういマネをしていた。だから捕まったのも当たり前だったのだと双子の口うるさい方が呆れていた。


 俺はこのディズ家で鎖に繋がれている。屋敷から出られないように非常識に長い鎖を首輪に繋がれて。首輪には鍵がかかっていた。頑丈な南京錠が鈴なりにつけられた。










 屋敷から出る事が出来ず、庭先で兵士に睨まれながらただ俺は空に水を乞い口を開け舌を出す。雨が降るだけ命が与えられる。


 はりつく髪も、流れるドロも、冷えていく体も、開く傷もどうにも出来ない。苦しみから逃れる術を想うのと同じだけ俺は白い手を想い続けた。あの手は傷を癒しドロを拭い血が抜けて冷えた手を包んで温めた。


「またドロ遊びかい。奴隷は野獣そのものだねぇ。ゴセルバが湯殿を準備させているわけだ。ホントは君、湯殿が好きなんじゃないのかい」


 空に口を開いたまま動く気力の失せた俺は視線だけ声に向ける。


 性格の悪い方だ。


「鎖が伸びきるまでして屋敷の入り口に行かれると廊下に鎖がはって邪魔だそうだよ。お母様がもっと鎖を短くするようおっしゃっていたし。そうなると庭までは届かなくなるけどね」


「出る、闇街」


「駄目だよ。君は僕らのオモチャなんだから。嫌なら鎖を引き千切りなよ。力でねじ切るもよし、小賢しく口先で誰かをそそのかすもよし」


 触れれば鎖がジャラリと重い音を鳴らす。言われずとも何度、噛みきろうとしただろう。両手で引っ張ってもどうにもならない。堅そうな物で叩き付けたりもしたが、形すら変りやしない。


 性格の悪い方は鎖を手に持つと鋭くそれを引く。首がはずれるかと思った。意識が白ずんで、息が出た時には目の前に奴がいた。


「賎民は食べる事しか頭に無いと習った。なるほど、ナルナの普段を見ていればそうも見える。動物とそう大差無いように。だが、どうも君は屋敷を出たがる。ここにいれば君は飢えないのにね。何故だい?」


 その声音は、あの女の様だった。柔らかい何かを包むようなリズム。


「会う、女。白い手、傷、水、食べる物」


 記憶を探っていく。


「闇街、いない、捜す」


「片言じゃ意味が分からないね」


 焦る。


「君さぁ、啖呵しかまともに伝えられないんじゃないの?本当、動物的」


「腕噛むしない、女、逃げない。喋る、出来る。伝える」


 黙り込む。


 伝えたい言葉が形にはならない。聞くことは辛うじて出来るようになったのに、自分で紡ぐ事が出来ない。これではあの白い手の女を見つけても・・・・・そもそも見つけてどうしようと?


 性格の悪い方は口の端が裂けそうな三日月を作ってクツクツと口の中で笑う。


「そう、つがいを捜してるの?明確な誰か。白い手、腕を噛む、闇街ねぇ。その女を闇街で探し続けていた、と。いいよ、その女、僕が見つけてやろうか?」


 鎖を手にしたまま、逆の手で顎に手をかけて空に顔を向けられる。灰色の雲と冷たい雨が目をかすませる。


「女・・・・・・・・会う?」


 顎の下を撫で上げて、鎖がカチャリと地面に落ちた。首が久しぶりに外気にさらされて重りが消える。自由になりながら、俺は微動だにしなかった。


「君がオモチャとして僕を最高に楽しませたら、ご褒美にナルナの目の前に連れてきてやるよ。最高に楽しめたら。ねえ、ナルナ、君は女に会ってどうするだろう。最高の見せ物になると思うよ」


 目前の性格の悪い方に目線を落とせば、鎖で俺を繋がないまま笑って屋敷に入っていく。


「おいで、ナルナ」


 雨の暗がり、屋敷の闇から白い手がこまねき、俺はその手に呼ばれるままに闇の中に進んで堕ちていった。リリスの誘いのままに。










 例え、何度その選択を迫られても俺はリリスの誘いを断る事は無いだろう。










 言葉を学び、拒んでいた人間の習慣にも従う。


「不気味だ。なんでいきなり素直に」


「躾しやすくて助かるならいいんじゃないかい?鎖の事でごちゃごちゃ言われなくもなったし、僕の調教が一流だということさ」


「変な薬を使ったんじゃ・・・」


「そんなものを使う必要が無いぐらい単純な生き物だよ、あれは」


 口うるさい方が矯正する剣での戦い方も習う事にした。なのに口うるさい方は態度が急に変わった俺を怪しんでいる。いや、怪しんでいるのはリリスの行動だが。


 相変わらず廊下を歩けば侮蔑の目が向けられる。だが、誰も殴りかかったりはしてこない。闇街であの目を向けてこられたら、しこたま殴られる前兆だった。何が気にくわないのか分からない。湯殿に入って匂いも消して汚れも落としている。


「お前が奴隷だからだ」


「僕からしたらメイドも召使いもみんな同じなんだけどねぇ」


「ナルナが立派になればみんなだって見る目を変えるさ。僕が絶対に更正させてみせる。まだこんなに幼いんだから」


「僕らたいして年齢変わらないんだよ、ゴセルバ」


 高価な服を着て、汚れを落としても貴族ではないらしい。まだうまく喋れないから人間では無いのだろうか。知能が低いから疎まれるのだろうか。喋る事が出来なくとも、あの白い手は柔らかく俺の傷を暖めたのに。


 奴隷。


 それはどうゆう存在なのだろうか・・・・・・。


 俺はナルナという名を得た。リリス、ゴセルバという貴族の戯れにて飼われる事になった奴隷らしい。俺は人間になるのだとゴセルバが言う。リリスはオモチャとして楽しませるようにと笑う。それに俺は従う。


 あの白い手を求めて。



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