シュードラ2
家庭教師が言うには俺は教えるに値しない屑であり、側に寄るも喋るも屈辱的なのだそうな。由緒ある家柄の子息をお育てするのが仕事、それがこのような奴隷に学の指南をさせられるとは侮辱だ、と。だいたいこんなことを言っていたか。
闇街で喧嘩口上は十分に聞き知ったと思ったが、貴族のソレはまた違う。気配で馬鹿にされているのは分かっても理由は理解を上回る。
「言葉が難しいなら本を読み、会話を繰り返し深めていきたまえ。はあ、文字は痛いのかだって?その年で奴隷は文字も知らないのかね。何かを伝える術がないとは」
何を考えているか伝える方法はある。当たり前のことをするだけだ。腹が立てば殴るし、殺そうと思えば噛みつく。恐ろしいと感じれば砂をかけるし、近寄らないよう警告するなら唸り声。腹が減れば何がなんでも奪うためにもがくだろう。
「動物と同じか!ああ愚直よ、人も野生ともなれば本能しか持ちえぬのか。シュードラなど罪深い者に智を与えるとは世の不条理に私は嘆き続ける。犬に詩の素晴らしさを称賛しろと言っているのだから!!」
奴はいつも出来ない事を責めるだけで本を投げつけて帰る。家庭教師とは知らない事を教える者だと双子のうるさい方が言っていたのに。
言葉を覚えるのに異存はない。今の状態では頭の中で考えている物が伝えられない、形にならない。俺の言葉を誰も正確に理解しない。敵を始末するのに言葉は必要なかった。だが、あの女を見つけても攻撃するわけじゃない。何がしたいか分からないが再開した俺には言葉が必要になる。それだけは、感覚として知っている。
俺はあの女に何か言いたくて探しているのかもしれないと。
会えば分かる気がするのに性格の悪い方はまだ女を見つけない。奴は俺が自分の思い通りになれば女を連れくてくると言った。それなのに何をすればいいのか問えば、さあねと答える。
「足掻いていればいいのさ、自分の運命に」
口が裂けそうな程に端を吊り上げて笑う。
自分の運命、自分、俺の運命に逆らう。その意味はそれ以上でもそれ以下でも無く、性格の悪い方はその性質ゆえに教える事は無い。やはり言葉を知るしか手立ては無いように思う。伝えるために、知るために、得るために。昔からそうやって学んでいったのだから。
だがこんな調子でいいのかという焦りもある。
俺は飢えなくなった。
だが、あの女はこの屋敷の外だ。闇町のどこでどうしているのか、差し出した手にパンを握っているのか。
窓を開け放てばキラキラと輝く屋敷の陳列。
目が潰れそうだ。
ねじくれた黒い線が並ぶ本のページをめくりながら溜息がもれる。よく口うるさい方が本をこうしながら話をする。言葉が載っているのかもしれない。
何日かに1度のペースで屋敷に見慣れない豪奢な布をまとった人間が出入りする夜がある。その時だけ俺は住み処から出るのを禁じられいくつもの鍵をかけられる。メイドと兵士もチラホラ見かけるが、後は全部貴族だ。
色つきの水を呑んでウジャウジャしているだけなので、窓から灯りをつけずこっそり眺めるのも3度で止めた。この日は双子も現れない。小さい灯りで本の文字を眺める以外にする事も動く事も出来ない。鎖が無くなっただけ少し前よりはマシだ。餌が無いのも別に気にならない。腹が減るだけで動けなくなるわけでもない。
それに食い物は寝床の下にもちゃんと蓄えを用意してある。
本で囲って隠してある袋からグチョグチョの肉と野菜をと茶色い液体のついた物をつかんで口に運ぶ。汚れていない手で本のページをめくる。手を舐めて綺麗にしてから両手で本を抱え直す。
コツリと背後から音が鳴った。
窓を振り返れば、ただ黄色い月が見える。
それをなんとなく見ていると、今度は小さな物音ではすまなかった。窓が拳サイズの石で盛大に叩き割られた。ガラスの弾ける音とともに小さく悲鳴が耳に入る。
「ディズ伯爵の屋敷のガラスを割るなんて!」
外から甘ったるい声がする。瞬きしても窓は割れたままだ。
「うっさいわねぇ。・・・少し力が入っただけじゃない」
「怒られるからね、ラスちゃんのせいだから」
「あたしはついて来いだなんて言ってないわよ。それにしっかり見なさいよ」
貴族がウジャウジャしているだけだった風景に、音をたてないよう隠れて覗いた外で、3度の風景には無かった大きな目と視線がぶつかった。見つかったと体を震わせる。ざわめきから区切られたように、兵士も貴族も遠い。なのに見上げる2つの視線だけは確実にこちらを見上げていた。
「誘き出せたじゃない。あんたがタイセの言う幽霊?」
口を閉じて半眼で見上げる方と口を開けたまま見上げる方、どちらも子供だった。自分と同じくらいの体格の。
「ゆう、れい?」
それは奴隷と同じような意味なのだろうか。
「ほらね!いたよ。僕の勝ちだ!」
「ふん。まだ確かめてないわ」
言うなりドレスを着た方の子供が壁の模様に手をかけると、身軽に窓の近くにまで上ってくる。貴族は階段を使う。俺みたいに壁を登る女に驚いて軽く頭をのけぞらせるが、窓の破片で手を刺した手の平を切った手が胸倉をつかむ。
赤茶色の髪が揺れ、赤い血の流れる手をペロリと舐める女。
「幽霊なんざいないわよ。あたしの勝ちよ、タイセ。こいつは部屋住みの貧相な奴隷だわ」
「ラキタス!」
至近距離にある赤銅の瞳が獰猛に挑戦的に細まる。
「まっ暗い部屋で餌が運ばれてくるのを待つだけの飼われ身。ディズ家は大貴族だもの、余った屋敷の離れなら部屋で奴隷もアリね。つまらない。覇気のない飼い犬ほど面白みもない」
ふと窓から姿が消える。1階だけの距離を女は飛び降りた。ドレスが空を惜しむようにめくれあがり遅れて草に舞い降りる。下にいた男が駆け寄って俺を再び見上げる。
「ねえ、幽霊じゃないなら降りておいでよ。ラスちゃん意地悪ばっかりなんだもん。僕、退屈なんだ遊んでよ」
月明かりの下で伸ばされる灰色の手に甘えた笑顔があった。
「切り替え早」
女の方が悪態をついて腰に手を当てて反り返って立ち上がりつつ上を向く。
「僕はタイセ。君はなんて言うの?」
なんとなく男の方を見ていると、不意に女の方が身を低くしてタイセの背の服をつかむ。闇からうっすらこちらに近づいてくる鎧。身回りの兵だ。
「ずらかるわよ」
「えぇぇぇ」
駄々をこねつつタイセが焦れったそうに口を尖らせて俺に向けて小さい体を壁に手をついて精一杯乗り出す。
「名前は!」
半分は女に引きずられてタイセが後ろ向きに去っていく。
「ナルナ」
つけられた名を呟く。聞こえたかも分からない、伝える意図があるのかも怪しい大きさだった。完全に引きずられているタイセは拳を握って叫んだ。
「じゃあ、またね!ナル君!!」
「叫ぶんじゃねえわよ!馬鹿タイセ!!」
騒ぎに気付いた兵士がその小さい曲者を走って追いかける。その集団はすぐに姿を消し、詳細は分からぬままだった。
俺は庭に降り立った。
空を見上げれば周りを明るくは照らさない光がある。あの光に月という名があると知った。全てを焼き尽くす眩しい光は太陽という名を持つ。地上の光は炎、ロウソク、灯篭、色んな名前を持っている。
何にでも名前をつけたがる。貴族は何にでも理由をつけたがる。あの双子は俺が何かするたびに正解と間違いを突き付ける。
「脱走か?窓のガラスを割るだなんて最近はしていなかったのに」
いつもより煌びやかさを増した口うるさい方がいつの間にか、そこにいた。その姿に興味はなくてすぐに空に目を移せば近寄ってくる気配がして、勢いよく地面に視線をはたき落された。
「物を壊すな、暴れるな、噛みつくな、騒ぐな。守れないならまた何度でも打つ」
「ふうううううっ!」
「唸るな!お前は動物か!!」
牙を向けば再び頭をはたかれる。苛立ちが増す。手を口うるさい方の頬に素早く伸ばし爪をたてて引き抜く。血が舞う。
「っつ!」
頬を押えながら口うるさい方は俺の手をつかんで地面に引き倒す。そうだ、性格の悪い方の命令に従う義務はあっても、こいつに従う道理はない。こいつは面倒なことを口うるさく押しつけて俺を追い回す邪魔なものだ。
「止めろ!せめて、騒ぐな!この、馬鹿!!他の者にこんな所を見られたら」
「離せっ!殺すっ、ぐぅぅ」
体を押える口うるさい方の肩が側にある。俺はそれに力いっぱい歯をたてる。痛みで叫びをあげるが、奴はすぐに口をつぐんで俺を持ち上げて背中が浮いた。
「っ!?」
真っ白、な、視界。
息がつまる。
荒い息をはきながら首元が上に引っ張り上げられる。うっすらと戻ってきた視界には頬から血を流しながら涙目で俺を見下ろす口うるさい方が見下ろしていた。その後ろには月と闇。
「言葉がうまく伝えられないからって攻撃していてどうする!?お前は奴隷として蔑まれたままでいいのか?人間だろ?お前だって僕達と何も変わらないはずなんだ。姫様はおっしゃられていた。お前達も僕らが守る大切な国の宝だと。人なんだと」
手足がしびれて動けないまま、俺も息を乱して口うるさい方を見上げる。服をつかんで持ち上げられたまま。
「証明しなければいけない。奴隷だとて立派になるのだと。人間だと。お前から、全ては変わるという、証明を。全ては姫様の御心のままに」
「ご執心だねぇ」
闇から生まれるようにいつの間にか性格の悪い方が兵士を背に近くまで来ていた。闇夜の陰になって目元が見えなくとも、あの吊り上がった三日月型の笑みを見ればよくわかる。
「悪い子だ。僕のゴセルバにまた噛みついたね?綺麗な顔に醜い傷までつけた」
性格の悪い方は兵士に顎で何かを命じる。口うるさい方は俺の前で腕を広げた。
「かまわん。これの躾は僕が好きでやっていること。部屋にも僕が引きずっていく」
「ゴセルバ坊ちゃま、その奴隷が主に手向かいしたのでは見過ごすことはできません。旦那様と奥さまに報告し然るべき罰を与えねばならぬ決まりです」
「お母様には言ってはいけない!」
「しかし」
静かに性格の悪い方は兵士の前に出てきて口うるさい方の顔を両手で包み横顔に顔を寄せる。その視線は俺を見下ろし、囁きは口うるさい方の耳へ。
「駄目だねぇ。決まりは、決まりのはず、だろぉ?ふふ、ふふふふふ」
俺は起き上がり、邪魔な前髪を後ろにかきあげる。
懲罰の時間だ。
鞭という武器は好かない。
外で戦う時に使っている奴を見た事がない。おそらく実践には不向きなんだろう。その代りに縛り付けた人間を狙って打つ。狭い場所で縄をつけられれば避ける事は出来ない。
布地の厚い光沢を放つドレスを着た臭い女は、地下の懲罰室で異質な存在感を放っている。その椅子で足を組んで不機嫌そうに鞭を打つ男に命じている。
「可愛いリリスでなかったから、まだしも、また暴れようなどと思えないようにしっかりと打つのよ」
「これ以上は、坊ちゃま方のペットが」
「仕方ないことわ。リリスに次はもっと上等なペットを与えるだけ。しばらく痛みが消えないように念いりに、もっと強くよ!」
「はい、奥様」
痛い。
苦しい。
肉が裂け、血が流れ、骨が折れる音が聞こえる。
それでも感覚が途切れることはない。
「奴隷ごときが、屋敷に徘徊しているだけでもおぞましいというのに、病気を持ち込まれたらたまったものじゃないわ。なぁに?まだ生きてるではないの」
耳が遠く、声に膜が出来ている。
うっすらとぼやけたドレスの女が目の前で、棍棒を握って振り上げていた。頭の中にガツリという音が残ってからようやく意識がなくなった。意識がないのに、痛みだけはずっと残って、いた。
小さく遠くで誰かが喋っている。
奴隷がどうとか。
人間、命、恵まれ、憐れみ、おぞましい、生かす、死ぬ。
死ぬのか?
耐えがたい痛みに叫びたい。
何度となく受けた懲罰、暴力、恐怖、痛み、俺は何故こうまでしてこの世界にすがりつくのか。だが死ぬのは怖い。痛みは苦しい。逃れたいし感じたくない。
「狂えばいいのさ。壊れた人は何も感じない。恐れるものが無くなれば幸せじゃないかぁい?」
「それまで辛い思いを突き詰めろと?恐怖から逃げれば何も残らない!大事な物を失うだけだ」
あっちからも、こっちからも反響する音。
「戦う相手がいれば簡単だろうけど、あいまいなものを相手にするような賢さが奴隷にはないだろう?死ぬまで檻にいれて飼ってあげるかい?それとも戦う相手を見つけてあげるのかい?」
静寂が落ちる。
体もゆっくりと、くるくる体が回っている感覚と、更に遠くなっていく声。
落ちる。
堕ちていく。
「自分で勝ち取る剣を、騎士の剣を」
「喜びなよ、ナルナ。お前の運命が決まった」
柔らかな弾ける音と完全な静か。
俺の・・・運命?
目が覚めれば自分の部屋にいた。
簡単な手当と、上等な布を水に濡らした物が額にと。
水が目と耳に垂れていく。布を口に当てて吸えば生暖かい水が喉を潤す。泥の味がしない水。
窓は木を内側から打ちつけられていた。外も何かでふさがれている。光が微かに木床をポツリポツリと照らしている。幾筋か光の線が空中を貫いて、その周りにだけ白い点がフワフワ飛んでいるのが見える。
身動きは出来ない。
痛く、頭がズキズキ痛む。
部屋の入口に餌が置いてあった。あそこまで行かなければ。ひもじい、水が足りない。欲しい、あれが欲しい。
ベッドから落ちるように這いずって、激痛が腕と肩と足と腰と頭と顔と腹と背中と・・・。
金属が派手に音を鳴らす。皿を引きよせて顔を突っ込む。
「はっ、あっ、ふっ」
痛みに汗が浮かぶ。それでも飢えは止まらないし、食わねば死ぬ。コップを傾けるだけの力がないから盆に水を引っくり返して舐めすする。水が欲しい、吐き気がする。気分が悪い。もっと水が欲しい、水が、水が、水が足りない。
「み、ず」
扉の向こうに人の気配を感じる。
女の声だ。メイドとかいう屋敷にいる奴らの声がする。
水。
人は通り過ぎて行った。
扉のノブまで手が届かない。
何度も目を覚まし、扉まで行き餌を食らう。目が覚めればいつもベッドにいた。激痛と共に起きたのはその時だ。息を切らしながら双子の片割れがいた。暗くて顔がよく見えない。
息を切らして、整えると溜息をつく。
「どうしてお前はベッドから動くんだ。そんなに、逃げたいのか」
甘い香りが顔に向けられる。花がひっしりと束ねられた物を双子の片割れが持っていた。
「後でメイドに飾らせよう。ナルナはよく庭で花を見ているから好きだろう?見舞の品だ、少しは元気にって、こらこら花は食べるものじゃないと言ってるだろうが!!」
水、のど、苦しい、花、甘い、足りない。
「痛いのか?医者を呼べればいいんだが・・・すまない」
口の中に残された花だけを舐める。頭がクラクラする中で、ベッドに座り・・・こいつは口うるさい方だ・・・俺の髪を指で耳にかけて布を出して俺の汗を拭う。
もうろうとする中で話し続ける。その意味も意図も分からない。言葉が分かれば、全て理解できるようになるのだろうか?この苦しみの訳も、口うるさい方がする行動の意味も、性格の悪い方の面白がる事も、白い手の女を探す方法も。
どうしてこんなに何も出来ない?
水が欲しいのに、どうして俺は見つけられない?
貴族はこんなに水をたくさん持っているのに。
座れるようになって、餌を再び双子と共にとることになって久しぶりにテーブルで難しい食器を使って食べる。動かせば痛い腕と震える指でなんとか口に運ぶ。
「今日は姿勢とスプーンの持ち方と口から迎えに行く無作法の躾はしないのかい?」
ニヤニヤ笑う性格の悪い方に、いつもなら口うるさい方は黙ってスープを口に流す。俺の食べ方と違って『優雅』なもので。口まで届かないスプーンから流れるスープを必死に口ですくい上げる俺の指を、性格の悪い方は楽しそうに指で弾く。ボロボロと下に落ちては苛立ちが募る。逆らってはいけない。
懲罰は怖い。
女を見つける手だてを失うのは嫌だ。
「僕だって、怪我をしている時に融通くらいきかせる。それに怪我が治ったらもっと厳しくするんだから今ぐらい自由にさせてやるんだ」
厳しく、これ以上に口うるさくしようと言うのか。
「ナルナ、お父様にお前の推薦状を作っていただいた。前代未聞だし、厳しい試練を与えられるということだが、これで認めてもらうことが出来れば、お母様や誰から見ても立派になれる」
「いくらディズ家の力と言っても、王族が認めるかねぇ?」
「うるさい、リリス!ナルナ、僕と共に騎士になり独立するんだ。誇りある強く尊い国を守る騎士にだ」
騎士?
「まあ、運命に抗うにはそれなりに歯ごたえのある試練か、ねぇ。それはそれは、面白そうだと思わないかい?」
「運、命・・・」
定められた道に逆らうこと。
「俺の運命・・・奴隷しない、勉強、すること」
「なんだい、自分の運命が奴隷だって自覚してたのかい。お馬鹿さんが進化したもんさねぇ。遠からず近からず。いいさ、君は言い付け通りに努力していればいい」
性格の悪い方は人をなぶるのが好きだ。こいつが面白いというからには俺にとっては面白くないという事になる。だが、こいつを楽しませないと俺は女に会えない。
奴隷をしないということが、どういうものなのか。今までの自分を捨て人の習慣をすべからく身につけ、更に上に行けという意味を持つという意味がここにはあった。騎士の意味を本当に理解した時にこれがどれだけ無謀なことだったかと、呆れる。奴隷が騎士を目指すのだ。
これを俺が自覚するのは、もっと先の話。
片言から文章を喋れるようになった。
性格の悪い方だけが屋敷にいる時は絨毯で寝そべりながら、口うるさい方は自分と同じように机で背中を伸ばして勉強をする。家庭教師がいない間、双子が家にいる間は勉強漬けにされるようになった。宣言通り前よりも口うるさく。
「ペンの握り方が違うと言っているだろう。この指は」
「ゴセルバ、うざい小姑。書ければ問題無い」
「うざ・・っておま・・・変な言葉ばっかり覚えやがって。持ち方がおかしいとだなぁ、文字の形が崩れて」
「うぜー」
綴り方が美しくないとか、文章は声に出して覚えろとか、他にも色々と注意は続くのだ。本当にウザイ。難しい事を言って悪意を向けてくる家庭教師よりウザイ。
言葉を話せるようになると、次は礼儀作法だと言う。
歩き方が上品じゃないとか、口からフォークを迎えに行くなとか、床に寝ころぶなとか、喋る時は上品に微笑めとか。
「穴を掘って物を埋めるな!花をしゃぶるな!絨毯をむしって巣を作るな!雨水を溜めるな!リリスのマネをするなーーーー!!!」
ひとまず口うるさい方を殴って逃げた。
誰にもばれなければ口うるさい方を殴っても懲罰を受けない。それまでに何度も死にかけ学習した1つだ。性格の悪い方を殴ったりすれば誰にばれずとも張本人からリンチに合う。縛り付けられた木に火をつけられ何度焼き殺されかけたか知れない。岩に繋がれて池に沈められると、しばらくは水が苦く感じる。
本が読めるようになってからは、喋りかけられる言葉の意味も、疑問も出来るだけ調べて理解に努めた。そして、この屋敷で飼われるようになり、それなりの月日が経った。
俺が勉強をすると喜ぶのは口うるさい方だけだ。肝心の性格の悪い方は邪魔をして喜んでいるというのが最近分かってきた。邪魔をして口うるさい方が怒るのを楽しそうに相手している。口うるさい方は太陽が出ている間は屋敷にいない。性格の悪い方はいたり、全然見かけなかったりするが屋敷にはいるらしい。
庭で花を眺めていると、庭師という男が俺を睨んで箒で俺を殴ろうと機会を狙っている。この男に遭遇すると間合いを取りながら空気を緊迫させることになる。食い物を埋めれば掘り返すし、花を食えば殴りかかる。ヤブに寝床を作ると壊して、木に登れば追いかけてくる。
「また花壇を荒らす気か、お前は!人の苦労も分からないで滅茶苦茶やりやがって、坊ちゃん方の奴隷だからって容赦しない!こっちは奥様にクレームがつけられているんだっ」
また怒鳴る。
奥様というのは双子のいうところのお母様という女だ。キラキラした石で体を誇示していて、きつい匂いをさせているから廊下の曲がり角前から察知出来る。アレの目は屋敷の何よりも悪意に満ちている。性格の悪い方を可愛がっていて、なるほど、アレを元にしているから性格が悪くなるのかと納得した。
アレがマシになるのは湯殿で匂いを消して、夜の花に囲まれて歩いている時だけだ。アレは花が好きだ。見るだけで食べない。貴族は花を食べない。庭師は花を食べると怒る。口うるさい方も。
「食べる、と怒る。たくさんある、のに。ケチくさい」
「そもそも花はお前に食べさせるために世話してるんじゃない!人様の物に手を出す強盗の質はなかなか直ったものじゃないな。喋れるようになっても所詮は奴隷、何も分かってない」
また。
何をしても、何を言っても、必ず最後につく言葉。
所詮は・・・・・・・・・・・・・俺は奴隷。
ここでは食い物がどこからか定期的に運ばれて尽きることが無いらしい。今のところはそれは俺にも与えられる。殴り合うのもかったるい。懲罰を受けるのは双子以外に攻撃した時も同様だ。
きびすを返して俺は庭師から離れる。
「また何を企んで」
後ろから聞こえる声にはもう興味が無い。手には本がある。これを今日中に読まないと口うるさい方が屋敷に帰ってきた時に更にうざくなる。屋敷の門の陰で外を眺めながら本を読んでいれば誰も近づいてこない。言葉を覚えなくてはならない。
奴隷をしないために。
薄ぼんやりと浮かぶ女の幻に顔は無い。もう会ってからかなり経った。
段々と輪郭を失っていく女の姿は、新しいことを覚えるごとに霞んでいく。消えてはいけない。残るのは白く細い手と、柔らかな感触と、俺の血の臭いに混じった甘い・・・花に似た香り。
門の庭先に小さい花を見つけて引っこ抜いて花に当てる。
そうだ。
女は花の匂いをさせていた。まるで花そのもののように甘い、甘い、甘い。メイドは別に花の匂いがしない。そういえば、庭師はよく花の匂いをさせている。
会いたい。
あの一度だけが死の恐怖を凌駕した。
本の文字をなぞる。
女神。
これが気に入っている。
そう、あの女だ。
薄汚れた闇町で花の匂いをさせた温かい白い手を持つ、顔を持たない俺の女神。
奴隷をしない。
騎士になる。
女神を見つけ迎えに行く。
言葉を知って、俺は少しずつ近づいていく。
俺のしたい何かに。
俺はあの女神が欲しいんだ。
欲する気持ちが恐怖を超えさせた。
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