シュードラ10
折れた腕に激痛が走る。
「あああああっ!!」
軽く笑うだけの悪魔。違う、もっとだ。これでは足りない。
ナイフを引き抜いてまた同じ場所を刺す。
もっとだ!
「んあ!」
何度も!!
「はあっ!あ!あ!ああ!?」
引き裂く!!!
「ぐぅがあぁ、あ!!!」
喉から悲鳴を絞り出して、いくらでも出る。
痛みを感じなくなれば次は足がある!足を斬れば血が勢いよく噴き出してそこらが血で染まる!!リリスの笑みが深くなる、苦しい、終わらない、痛い、熱い!!!刺す場所がからぶった。リリスを見たままに、確実に当たる箇所があるだろう。腹に深々と刃を潜らせる。
「ひゅっ・・・!?」
息が詰まる。
勢いのままに。手が止まりかけて、グリグリとと腹にねじ込み抉っていく。神経が弾けて、目の前が真っ赤になる。違う、それでもまだ俺は動ける。
体が傾き、手に力がこもらずナイフを取り落とす。
息が出来ない。
体の中から炎が吹き出るように熱いのに、体の先から恐ろしく冷たく感覚が消えていく。
知っている。これを知っている。
言葉も知らなかった俺が血塗れで震えていた、そうこれは死だ。純然たる恐怖。息を詰めて気を狂わせ、冷えていく魂に熱を与え女神が死から拾い上げた。ここから世界に引き戻して俺を人にした。
「最後まで魅せるんだよ。もっと、奥の、奥まで」
だか、今回、目の前にいるのは悪魔だ。
「痛みに弱いくせに、頑丈。そぉゆうとこは感じるなぁ。でももっと確実に逝ける気持ちいい箇所があるだろう?」
ミアの首元に剣の根を当てたまま、剣先でリリスは自分の首を軽く叩く。その箇所を刃が傷つけることも厭わずいる。アレは痛みも恐怖も感じない、そういうものだ。
「命の弾け飛ぶ愉快な終劇を響かせろ」
ようやくリリスから目を外してナイフを直視した。真っ赤に染まってドロリと溶けていく刃を。
盗みに入った屋敷で捕らえられ、あまつさえそれが変人貴族だった。盗人は縛り首という知識は闇街で知っていた。ただ俺は、貴族の子供の気まぐれで生かされた。
いつでも死を恐れていた。
痛いのも苦しいのも嫌いだが、死を何より恐れていた。
死ぬ、怖い、死ぬ、怖い、死ぬ、怖い。
笑えた。
「くっ・・・ふ、は、は、は」
膝と額を地面につけて、刃を喉に突きつける。
こんな感情を貴族は持たないのだろうか。これを避ける術を知っているから?勇敢だから?違う。本当は関係が無いから。この恐怖を知らない、真実目の前にしたことがない、何も感じないとなればそれは壊れているからだ。
さあ、ナイフで首を最後まで斬り落とすには手こずる上に最後まで生きていなければならない。皮一枚残すのですら足りない。最後まで興ざめさせないだけの見せ物として。死を見つめ恐怖を感じながら叫び、滑稽に、派手に。折れた腕は感覚を感じない。だが、ナイフを手に縛り付ければ使えるだろう。破れた服でナイフを固定して、腕を交差させる。肘を抱き込めばナイフが首に食い込んだ。そして、唯一まともな手の指を立てて首に突き立てる。
両側から首を抉れば首の1つぐらい落とせるだろう。
首を両側からブツブツと斬り、抉り始めると意識が飛び始める。首だけに神経が通っているようだ。声が出ない、息も、視界が黒く染まっていく。
「死を」
耳に入れないように閉ざしていたのに、声が最後になって届いた。
「恐れないというなら、どうして一緒に賭けてくれない」
失望したという響きで、なのに鋭く強く引き寄せるミアの声だ。
手が止まる。
「死なばもろとも、生きるなら共に。どうせならそのナイフに私の命も賭ければ良い。お互いが大事な共だと信じてる。だから、お前の命と同じく重ねて一緒に進みたい。だから、耳を塞いで一人で消えるな。私の意志を無視しないで戦え」
甘ったれた幼姫は、俺が選んだ道を強烈な光で拒絶する。
呼ばれる先は行ってはならぬ道。人になった俺が選んではならない。もう立ち上がる力だってあるわけがない。引きちぎれそうな腕と足はもう痛みのみに支配されて俺の操れる神経と繋がっていない。それでも耳は声を拾う。
「その代わり、私が死んだらナルナも死んで。逆は許さない」
「なんて傲慢な姫だこと」
そして、強引でしなやかだ。
「世界で」
笑っている。
こんな状況でも、狂ってなどいない。
どうしてここまで綺麗なものが世界に生まれられたのだろう。
「一番信じてる」
俺は腕を下ろした。息をのむゴセルバが構える。
「ならばこちらが死すのみ!」
あてられたミアの首元の剣が曳かれる寸前、ミアが無造作に軟い両掌で刃を前に押し出した。横に引かれた手に真一文字の裂けた血が吹き出る。それは、俺が騎士となったばかりの頃に手を引かれて連れて行かれた塔で、ミアの目の前で始めて俺が受けた傷と同じように。
走り出していた。真っ直ぐには進めないが体を振り回し捻るようにして、俺が一番嫌いな鞭として動かない腕をリリスに叩き付け勢いのまま体ごと突っ込んだ。部屋にいる誰かの叫びと、剣や物が床にぶつかる音と、感覚と、恐怖と、心配と、闇に呑まれ全て空虚になるどころか混ざって溢れて破裂する。死が感じられない。全てがウルサく鳴り響いている。
全力の捨て身で打ち付けたリリスは膝をついて脇腹を押さえ剣を引き抜く形で停止していた。対の双子が片割れの背に剣先を刺し当てていた。浅い傷だが血が服に染みを作っている。
「遊びは終わった、リリス。全て終わってしまった。最悪の一歩手前で」
ミアが手の平を振るわせて半泣きで口を尖らせ、5pと離れない場所で倒れたまま向かい合っていた。お互いがボロボロで、俺の方がグロテスクになり過ぎてはいたが。
「痛い」
「俺の方が痛い」
生きている。
少年騎士が断罪されるまれな瞬間、剣を向けられながら威圧に満ちた空間だ。なのにリリスはなおも笑っていた。思えばリリスも最初から壊れていたのだ。
「なかなか面白かったけど、うまくいかないものだね」
「なんてことを」
騎士連中がタイセの誘導で遅れて地下へ辿り着き、俺達は地上に引きずり出された。血の密度が高い空気から解放されてミアとタイセはあからさまにホッとしていた。傷の酷いミアの応急処置が着々と行われ甲斐甲斐しく城へ運ぶ準備が行われている。タイセも何者か判明すると同じように丁寧に扱われている。ただ、断罪されるらしい双子は腕を捻り挙げて地面に跪かせられた。
「最後の余興は良かったけど、まだし足りないねぇ。せっかくだから床が赤に染まりきるまで血を絞り出して綺麗な銀の髪を広げて浮かべてみたかったなぁ」
「もう黙らせろ!子供だからと容赦は不要、ディズ一族もろとも極刑とし処断せよ!」
やりとりを庭の草の上へ転がされて眺めていた。死体と同じような扱いで、もう少ししたら向こうの並べられた連中に混ぜられるかもしれない。まあ死にそうなぐらいギリギリではあるが、気分的に死ぬ気がしない。どうせ次はディズの人間として何かしらの処断が待っている。
「全員は駄目だ!ゴセルバを返して。ナルナは何処だ。離せと言っている!?」
大怪我をしているというのに元気なお姫様だ。人の波に紛れて俺の小さい体なんて見つけられやしないだろう。俺よりも更に小さいんだから図体のでかい騎士達が阻むこちらになんてこれるわけもない。叫び喚き続ける子供をあやして言葉なんて受け流される。声だけがよく聞こえる。とにかく傷を治してから暴れて欲しいものだ。どうせ解放しやしないだろう。なんでもない我が儘は通っても、貴族らしくないミアの願いはなんだかんだで希望が通った試しは無い。
「今回の事は全てリリスの咎だ。あいつだけ国外追放にすればいいんだ」
「処罰は国王陛下にお伺いを立てねばなりません。これは謀反ですぞ。いえ、お目触りなのでしたらリリスを処刑しましょう」
そうなるな。
王族にたてつき、狂った遊びに興じたツケだ。それでも余裕の顔をして笑みを浮かべ続けるリリスに俺は恐怖を感じる。奴隷のように乱暴の扱いを受け、殺されようとしていても。死をオモチャにする悪魔は、自分の死すら愉快なのだろうか。
息を吸う間・・・興奮した子供の声が低く研ぎ澄まされた。
「追放せよと言った」
誰もがないがしろにしていたミアの叫びが、命じるものへと変化する。
「何をしている。早くこの国から追い出せ。体中が痛いからゴセルバは私を抱っこして。私が痛い目を見たんだぞ、私が全て罰を与えるに決まっているだろう。気分が悪い。騎士ならばすべからく命令に従いなさい」
こんな幼い少女を相手に貴族すらこわばる。受け流していたものが、突如罪深く恐ろしい行為だったことに気づかされたというように。どれほど小さくいとけなかろうと、命令は絶対なのだ。それが王族。
そう、全ての底辺にいる俺から遥か遠い頂点に在る、俺の至高の聖域。
「すぐに動け!」
「は、ただいまっ」
周りの連中が動き出し、人の隙間から姿が見える。ゴセルバも目を丸くして、どうしていいか戸惑ってミアを見下ろしている。リリスは引っ立てられミアから離された。不快にさせる者を視界から外したらしい。
我が儘をぶっ飛ばしたミアは、周りが動いた後に静かに目を軽く伏せてゴセルバの両手の指先を軽くつかむ。動かすと痛いのだろう。
「私が罰を決める。処刑なんていらない。誰も私から奪わせない。だから、お父様の手には委ねない」
ひざまづくゴセルバを真っ直ぐと見下ろして。
「しかし、姫に仇をなしてなお生きながらえるはずがありません。覚悟は出来ています。自分が助かりたいばかりにつまらない策を弄したことも、そういう気持ちが無かったと否定出来ません。僕は、あいつがいつか狂った事件を犯すことを予測していた」
「私は知っている。ちゃんとリリスから助けようとしてくれていたって。止めようとしていたのだって見てた。それに、とても良い友人にだって引き合わせてくれた」
ゴセルバの手に抱き上げられ、足下の動きすら見えなくなる。
迎えの馬車が到着した。
体を引きずるようにして進み、最後まで俺を探していたミアには近づけないまま連行される。このまま処刑場に連れて行かれても驚きはしないが、ミアの下に逃げ込む前に俺には話があった。
わざわざ見張りの目が厳しいリリスの方へ。あわただしく動いている誰もが俺の道筋に気づかない。奴隷は石ころのようにぶつかってもそのまま。ミアの意志に乗せられて働き続ける。俺を追い立てはしても、逃げられないと思っているからこそ、放置する。だから、たどり着けた俺を警戒したのはリリスを取り押さえる監視だけだった。
「さがれ!」
聞く義理も無いので俺は突っ立ったままリリスを見下ろした。血が流れすぎて全身の感覚が消えているせいか、リリスの姿はぶれてしまっている。いつもと同じ口を引き裂いたように吊り上がった三日月の笑い。
「死を恐れる奴隷が自ら死を選ぶ。そぉいう流れが、楽しかったのにねぇ。ナルナはあんまり僕を愉快にさせられなかったね。いまひとつ欠ける。道化としては最低じゃぁないか。つまらない。それに引き替えミアは本当に可愛いねぇ、いたぶり甲斐がある」
「黙らないか、リリス・ディズ!?なんて不遜な、ええい、引けと言っている!聞こえないのか奴隷め!!」
黙って見下ろし続ける。
このまま、全て幻想の中に生かす方が心の拠り所としていられるだろう。ただ、諦めきれないよりも断ち切ってしまう方が迷いを消せるかもしれない。ここでリリスを失えば、嘘であれ本当であれ思い返すことになる。
ふと、リリスは屋敷の門の方を見て目を大きく開く。そして声をあげて笑い出した。
気持ち悪そうに監視が押さえつける手を緩めず体を引く。ゾッとする。冷たいナイフを首にそえている時のように。
「そうか、そういえばナルナ、君と1つだけ約束をしていたっけかなぁ?」
虚をつかれて心臓が早まる。
リリスの目線は迷いなく定まっていた。屋敷の門、視線を追った先には見張りの騎士がいて、兵士がいて、ちらほらと何処かの使用人が騒ぎを興味深げに覗いている。
「裏町で、お前の命を救った、白い手の女。噛みつき、それでも逃げない。お前の恋し求めてやまぬ者。忘れきれないんだろう?僕が知っているかもしれないという気持ちと、見つけられるはずがないと思う気持ちが残り揺らいでいた。ああ、僕は貴族の中じゃあ約束をちゃぁんと守る方さ。初めから」
心臓が確かに強く打つ。
「何処にいるかも、何者なのかも知っていた」
リリスの目線を追った先には1人の華やかなドレスを着た女がいた。幻覚が重なる。手を伸ばした女の顔がうっすらと、だが前よりはっきりと。
髪の色を。
ああやって心配そうに歪められた表情を。
「服は、確かにボロを」
女神がいたのは闇街。そこでみすぼらしい姿をしていた。それにあの貴族は白く無い日に焼けた肌をしている。
「姫に確認してみるといいさぁ」
クツクツと笑う。監視は話の不審さに耳を傾け黙っている。
「ナルナが命を拾った日、奴隷にかまれた娘の噂が貴族の間で流れた。またあの狂女だ。屋敷を抜け出しては城下を走り回り裏町にまで出入りする。怪我が絶えぬ、性格もほらあの通り。いつ穢されて帰ってくるものか。変わり者としてはラキタス・シェーバの上をいく評判。ミア姫の気に入りの貴族のじゃじゃ馬嬢。あまりの事に、ナルナが現れる少し前に城への出入りを禁じられていたがねぇ」
「裏町にいる女だ」
「ミア姫の手を思い出せばいい。遊女共の手と比べてみたかい?あそこに人に施すほどの余裕があったなら、死体焼き場も少しは休日が減るだろうさぁ。そんなあいまいなものより確かなのは、お前がつけた噛み痕がしばらく腕に残っていて、それが僕を含めて何人も見ているということ。お前の話でピンときた。愉快なオモチャを見つけた。だから殺さず飼った」
騒ぎに泣きそうな顔で騎士に何かを訴えている。柔らかそうな体、地味ながら暖かい眼差し。
「事件を聞きつけてミア姫の元に駆けつけたようだねぇ。もう少し時間をかけて、駆けつけやすい舞台を用意すれば、あの娘も巻き込んでもっと楽しくなったかもしれないなぁ」
しっかりと細部まで思い出した女神の姿と、ダンドロに乗せられた馬の上で確かに見た裏町の地味な女の姿が完全に重なり実像があそこにいる。つぎはぎの服を着た甘く優しく、花の香りをさせていた。
「ミア姫がナルナにとって国で一番遠い女とすれば、この国で2番目にお前の手が届かないのは大臣家の息女だ。身分の重みは充分に体に刻み込まれただろう?」
白い手が闇の中に消える。
「さあ、あれが奴隷が恋し続けた女の正体、貴族カクウ・ホクオウ嬢に感動の再会だ」
奴隷の運命に抗う。
つまり、リリスのシナリオは元からここから始まっていた。
「なんて身の程知らずな。ホクオウ家の子女に奴隷が?汚らわしい!憐れみを零された程度で思いあがるにもほどがあるっ!?婚姻はもとより手を触れることすら許さぬ、ただでさえ姫様が心を許す貴族の」
頭に流れた。
真っ白な闇?
両膝をついていた。冷たい、頬が、顎に水が流れ零れている。
くぐもった悲鳴が後ろで聞こえ、周りが再び騒然として動きを止める。俺の後ろで、ヌルリとした赤い血を滴らせた両手が頬の涙を拭った。
「想い、悩み、絶望し、足掻き、泣くと良い。生きている限り。生きることに安堵を覚えられなくなるまで」
残っていた騎士が一斉に剣を抜き構える。
時間は少ない。
俺の運命を傾け、道をいくつも作り笑っていた悪魔を振り返る。監視は死んでいた。
「リリス」
振り返れば両手が離れ、リリスは監視から奪った剣の血のりを監視の服に無造作になすりつけた。
滴が落ちる。
「ありがとう」
血ぬられた涙。
ふいにリリスは表情を無くす。抜け落ちた、そういう顔をしていれば本当にゴセルバと見分けがつかないだろう。
「やっぱり可愛くないね、君は。オモチャとしていまいちだ」
踵を返し、騎士に追われながら小さく細い悪魔の体は建物から消える。
乱暴に俺も張り倒される。何を聞いたのか、何を話したのか、逃がした罪がとか、声はいくつも飛び交う。
その隙間を縫って、口元を押さえ顔を真っ青にする女神を見た。
ああ。
最後まで性格の悪い悪魔だ。
つくづく俺は奴隷という言葉に縛られる。結局逃れられはしなかった。手が届かない位置に欲しい物を全て並べて蔑まれる。
喘ぎ続けながら、それでも、モノクロに揺らいでいた景色は、色鮮やかにどんどんと染まっていく。
殴られ、蹴られ、牢にぶち込まれた俺を助けるために、またミアがひと暴れするだろう。ゆっくり眠ろう。
ここは凍えない。
奴隷の枷をつけたまま、俺は死ぬまで足掻き続けるだろう。そこで何が手に入らずともひっそりと。
再び会えば何をしたかったのか分かるかもしれないと思った。だが、実際には分からなかった。
考え続けることになるだろう。
生きる限り、地獄の底から天上を見上げて渇きを潤す雨を逃さないように。
俺は奴隷だから。
騎士達が地下に辿り着く前に、ミアはこの地獄ですらいっそう美しく俺の前に立っていた。
「一緒にいてくれる?」
片手を引き抜かれ白い手がこちらに伸ばされる。血で染まりながら伸ばされた痛々しい手だ。縁取られた髪が銀の月のように夜を思わせる。
静かに痛みを与えないように大事にその差し出された指先にキスをする。偽物の騎士らしくぎこちなく、今度は後悔しないように。全てを賭けて大事にしよう。
「背を預け共に歩み、共に死す」
仰せのままに。
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