クシャトリヤ 6





 赤い光が暗い裏町の狭い道にも差し込んで夕方になると、ああ、またあたしを責め立てる家に帰らなければいけない時間になったのかと気が重くなった。幼い頃は恐怖に近かい感情を植え付けられていた。


 それでも、裏町に行く事を悪い事だとは思わなかったし、止めるつもりもなかったんだけど。


『ホクオウの息女としての自覚がなさ過ぎる。あのような低俗な場所に出入りするなと何度言っても理解出来ないとは、お前は私の頭痛の種だ!!今すぐ2度とあのような下賎な堕落者と言葉を交わさず同じ空気を吸わぬと誓わんか!?』


 家で泣けないから朝一番にシッポウ家でおば様の膝で大泣きする日もたくさんあった。


『何故わからん。逆らうのがそんなに楽しいか。いくつまでそんな愚かな事を繰り返し家名にドロを塗れば気がすむというのだ。笑われるのが自分だけだと?お前の姉達もこのままではまともな婚約者を見つける事もできんわ』


 見張られている中で明日は無事に裏町に脱出する事が出来るか不安で仕方なかった。


『気狂い娘め!お前をそそのかした子供一の族郎党、いつか必ず処分してくれる。いや、あのようないかがわしく城下の品位を貶める区画は消し去ってしまわねばならん』


 恐怖が最高に達して、殺意さえ覚えた。


 この男はあたしの大切なものを奪おうとしている。建て前と血統を重んじて、世間の目に怯えて生きろと。愛してもいないのに家族のために心を殺して生きろと。慎ましく自分を消すのが正しいあたしの人生の物語と。


 それが運命だ、宿命だと悲劇の主人公を気取るなんて冗談じゃない。どんな未来も自分が選んだものだと責任と勇気を持ちたい。


 では、刃向かうには何が必要?


『トキヤ、この国を変えるために騎士になる気はない?』


 嘘ばかり。


 どうにかトキヤを手放さずにすむ手段を模索していただけでしょ?


『姫様は一途な情熱家なのよ。笑えばどんな花にも勝る艶やかさと愛らしさ!でもやっぱり姫様の良いところは素直で気合いいっぱいの頑張り屋さんな所でね』


 ミア様の気持ちを利用して、王族と懇意になればお父様が手を出せなくなるだなんて不誠実な気持ちでいっぱいだったくせに。自分ではどにもできないからと。


 綺麗事を並べて、そんなにトキヤが愛おしかったのならミア様に渡したりせずに自分が手を取ってしまえば良かったんだ。泣いてすがればあいつはきっと・・・。










 大きく息を吸い込んだ口を両手で押さえ込んだ。


 頭が真っ白になって、嫌な動悸で冷や汗が吹き出す。


 何?


 今のは夢?


 あたしは、何を考えたの?


 吐き気がして、必死に色町のみんなの顔を思い浮かべる。おじ様、おば様、シンヤさん、リキ、タツノ・・・・。


 口を押さえたまま涙が溢れ出す。


 違う、あたしは絶対にトキヤをそういう目で見た事なんか無かった。そうじゃない。でも、比べるべくもなく大事な人間だった。自分の体も心も取引にしていいぐらい?


 ああ、奪われるのが怖かった。


 色町のみんながトキヤ無しで何が出来るのかと言うのを聞いて、あいつは特別でもなんでもないんだから自分でどうにかしなさいよなんて思う反面、偉そうな事を言ったあたし自身はトキヤがいなければ何も出来ない人間そのものなんじゃない。


 認めたくない。


 認めちゃいけない。


「うぐほぉっ!?」


 ドォォォォンと、低い衝撃音と揺れを感じて体を起こすと柔らかなソファに体が沈んでいたのに気づく。横には石で出来たテーブルが割れた残骸で、床まで割れている。ぼんやりと頭を上げれば絨毯の上に屈強なゴロツキが死屍累々と倒れまくっていた。ダスクが窓の近くの壁から地面にずり落ちて膝をついて悪態をつく。


 ただ1人立っていたのは、手を突き出して体を低く構えていたコルコット准尉だけ。


「早急に理解しろ。条件が飲めないなら俺はいっこうに構わない。さっさと死んでしまえ」


「くくっ・・・、半端者が粋がりやがるねぇ・・・・・」


 ダスクの憎々しげな声を無視して、あたしへ視線を移した准尉がソファに歩み寄ると急に肩へ担ぎ上げた。


「引き上げます」


 言うが早いか、扉から外へ、そして扉を割れんばかりに閉める。冷たい空気に音が響く。唖然としたあたしは素早い准尉に抱えられたまま運ばれて、慌てて肩を押して戻ろうと促す。


「お待ちになってくださいっ!何故あのような事を・・・脅すだけじゃ,これでは話が決裂を」


 顔を見上げれば、冷たい目が見下ろしていた。


 途端に顔を堅い胸板に押しつけられてきつく拘束される。口が開けずに、もがいても離してもらえない。彼の足が速まったのを感じながら混乱していた。なんだかんだ言って、どんな事へも力を貸してくれていたはずの彼がただ怒っている。考えを口にして説明してくれるわけでもなく、あたしに選択する事を任せてくれず。


 人通りが完全に無い寂れきった通りにきて、突然解放される。足に地がついてフラフラとさまよいかけて真っ直ぐに立つ。訳も分からず准尉を見上げると、顔をそらせて無表情に戻っていた。


 何?それ。


「何故あのような反感を持たれるような事をなさったんですか。取り引きに応じていたのに、これではもう一度話を持つのも難しい」


「気を失わせた事には謝罪と罰を」


「謝って欲しいのはそこじゃありません!!」


 血が引く。


 ただでさえ穏便に事を進められそうな数少ない人物だったというのに、あんな完膚無きまでに叩きのめすなんて、修復しようもない。こんな事はすぐに他の連中にも伝わるわ。しかもあんな大きな音で扉を閉めて、周りの窓から顔を出させるようなマネ。


「ずっと、何をしてもうまくいかなくて、ようやく良い流れをつかみかけたのに」


 顔をそらせたまま、こっちを見ない。スラム出身だからって礼儀を知らないわけじゃないでしょ?騎士としてルールぐらいは学んだはずでしょ?


 ・・・そう、呆れてるってわけ。馬鹿な女だって、聞く価値も無いって流したいわけ。


「申し訳ありませんが頭に血がのぼっているようですわ。お世話になっている貴方に理不尽な物言いをする前に、今日はここで別行動を取らせていただきます。お時間と手間をとらせました。失礼いたします」


 地面に目を落として、拳を握りしめて言い切って、戻らなきゃ。何を言われるかもされるかも分からないけど。優位な状態からの交渉が一気に全面降伏状態になってしまった。明らかに過剰な援助をしてもらってる身の上でこんな態度は許されるものじゃないけど。


 苦い思いで顔を上げれば、准尉の目があたしに向いていた。冷たく細められた刺さる程ゾッとする。


 後ずさりすると、すぐに壁にぶつかる。その距離よりも更に准尉は前に詰めてきた。息をのんで彼を見上げると、耳の横に風が切った。両側の壁に堅い腕をついて近すぎる距離で視線を刺し続ける。顔を寄せられて下がれない壁に背中を更に押しつけて微かに下に逃げようとしたけど、しゃがもうにも膝を曲げる隙が准尉の体で阻まれる。


「良い流れ?あれが?」


 威圧されて声が空を切って、なんとか絞り出す。


「ダスクは、契約を。闇業でも、商売で・・・あそこではまだ、信用が」


「体を売れば問題を1つ解決。そういうやり方は納得がいかないからぶち壊した。俺にとってはよろしくない流れ、それだけです」


「そんなっ、手段を選んでる場合じゃないじ・・・別に色町じゃ、生きていくためにみんなやることで、あたしも本当ならそうやって生きていくべき身の上で。第一おしくないもの、こんな何も出来ない出来損ないの自分なんて」


「あんたにはそういう愚かしいところがある」


 愚か?


 胸がズクンと波打って痛む。


「ゲスがそういう獲物を見てどう思うか、あんたは知らない。良い餌だ。どう食い荒らしてやろうか、鳴かせてやろうか、堕としてやろうか。あんたはその闇にあっさり食われるだろう。だが脱落は許さない」


 目が熱くて、息が苦しくて喘ぐ。


 足に力が入らなくなって、それでも座り込む事を許してくれない。


「そんなに安売りする程度の存在なら俺はいつでも牙を剥く。良い子で飼い鳴らしておきたいなら餌を忘れる事なかれだ。ヤクザにでも王子にでもなく報酬は正しく飼い犬にだ」


 両壁を為していた手がそのまま顎を固定して腰だけがきつく持ち上げて抱き寄せられて、頭が真っ白に、湿った上唇だけが当たった瞬間に横からガサついた土の匂いがする手のひらが介入して口を押さえつけられる。一気にコルコット准尉との間に冷たい空気が入り込んで、体が半分吊された状態で、あたしは地面に片膝をついた。


「欲情するんも分からんでもなかが、なんもお天道さんの下で健康的に励まんでも、暗がりでねっとりこっそりやってくれへん?」


 見覚えのあるニコニコ顔に、印象的な喋り方が近くにあった。准尉を見上げながら口を押さえている彼を見咎めると、准尉はあたしから手を離してすぐさま彼の喉元に突き刺す勢いで手をやった。ただ、謎の男もすぐさま体を捻って立ち上がると腕を組んで首を傾げる。


「なんの用だ」


「さしあたっての下地ばできとぉ、金ももらっとることやし親切しにきとん。しょせん、か弱ぁ女の出来る事は餌でいることだけにて、残りを受け綴ろいに」


 准尉との会話を呆然と見上げていると、威圧感のある背の高い謎の男があたしを見下ろした。


 謎の男はオルゴと名乗った。


 やっと思い出した。


 彼は確か、ミア様とトキヤを逃がす時に協力してくれる側にいた人じゃないの。










 どっちもこっちも中途半端に手を出して、何もなせないままに最後の問題に到達した。言葉の通じないスラムへと。手を引かれて強引に連れてこられたのは西のスラム。ここには仲が悪い知り合いすらいない。色町の隣でありながら、やったことといえばつい最近に迷い込んで巨漢に襲われかけたぐらい。


 そこを堂々と、ではないけれどスラムをよく知っているという感じで瓦礫や建物に沿ってスラム街の奥へと進んでいく。まるで死んだ町のようで不安にかられて後ろを振り返れば無表情についてくる准尉が目に入って慌てて前を向いた。かなり気まずい。いつも無口ではあるけど、黙々と後ろをついてくる彼の気配を強烈に意識させられる。


「男ばゆうんは、下心ばなかったらタダで動かん」


 ニヤニヤ笑いのオルゴさんは手を引きながらこっそりと話しかけてくる。


「猛獣使うにゃ餌と鞭じゃて。どれがどうゆう餌で釣れとぉか理解して男は操らな立派な悪女ばならんど」


「言ってる意味が分かりません」


 掠れ声しか出ないけど、反論すれば肩をあげて前を向くオルゴさん。なんだか、牙を剥かれるはずがないと、いつの間にか思いこんでいた准尉に乱暴されたのがショックだったんだろう。胸がモヤモヤして苦しい。


 オルゴさんの言葉には所々で悪意の含みが聞き取れる気がする。でも、ミア様の恩人のような人に悪い気持ちは持ちたくないから必死に気のせいだと自分に言い含める。人生ってなんて自己暗示に満ちているんだろう。


 辿り着いた場所は、ボロボロながら2階建ての石造りな家だった。入り組んだ場所にある入り口に引っ張り込まれると、そこには暗がりの猫の集団のように目を光らせた薄汚れた子供がたくさんこちらを見ていた。骨張っていて肉のついた子は1人もいない。お腹だけが異様に目立っていて目が落ちくぼんで大きく見える。


 ここは孤児院のようなものだという事を告げられる。ただし、どこから援助が入るわけでもない。しいて言えばここの出身であるオルゴさんが盗みで得た物で生活を補っているらしかった。贅沢に生きていた自分への罪悪感だろうか、胃も頭も重くなってくる。体どころか、内蔵も目も髪も全て売って詫びたい気持ちになってくる。ほら、トキヤといると感じなかった事も離れてしまえば世界はこんなに絶望に満ちてる。


 弱肉強食。子供が生きていくには、基本的に養い守る者がいる。正義だけで生きていけないのだと。


「動向ば見張っとぉ城の連中ん目が届かんとこじゃけ、ひとまずんば安全じゃて。水でも飲まんや、こないだ降った雨でいっぱい余っちょるんが」


「あの・・・あの、あたしゆっくりしている暇が無くて。城で大変な情報を得てしまって」


「知っちょお。あれを見つけようはオイラじゃき」


 言われてみればそれらしい事をラットが言っていた気がする。言われてみればラットからの招待状を持ってきたのも彼だった。それにしてもこの落ち着きようはなんなんだろ。なんだか周りとの温度差は自分が狂っているような感覚を植え付けられる。みんな殺されそうになってるっていうのに。


 ううん、真実・・・あたしは狂っているのかしら。


「話があるなら早く本題に入ってくれませんか?もたもた・・・しているように見えても、忙しいんです、あたし」


「そんことば用件じゃ。東の裏町ば行く余計なことせんで、カクウにゃもう待機していてもらう事になったん。もういらんけ、十分役に立ったん後はお飾りらしく女は高みの見物でも決め込まんや」


 いらない?


「いやいや、いてもらわんにゃ困る。役者はあんたを繋ぎに寄せ集められとぉよ。ミア大魔神も傾国の美女やゆう女じゃったば、あんたもなんやさ中々」


 笑顔で言われた内容についていけずに、聞き返す。無邪気とさえ言いたくなるほど朗らかに笑う人だ。周りの子供の表情の暗さは反対にどこまでも無表情で魂が抜けた人形のよう。


 いえ、笑っているのにオルゴさんも中身は。


「貴族共の目ばあんたの姿に躍起になっとお、あんたを慕う連中の戸惑いさ実力の枷じゃき。貴族連中をここまで引っかき回っしゃ奴ら、反乱の主格があんたってだけでも動揺するが隙はでかい。いつもは届かん刃先が届こうや。この機会逃せんぜ。オイラば不参加派じゃったんに、具合の良い条件が揃ったけぇ、一口飲むことにしたんや。今が実行の時じゃて」


 何を言ってるの。


 頭がガンガンしてまとまらない。刃先が届くとは?逃せない機会、何の?不参加派、実行の時、あたしに向けられた貴族の隙・・・横腹を突く。それは彼らが、貴族の横を突くと。どういうこと。今は貴族達から早く逃げなきゃいけないっていう話でしょ?何の、何を、どうするって。


 壁に寄りかかったままの准尉は無慈悲に言い放った。


「内戦で身分を平らに。奴隷の過激派に荷担か。武力国家にどこまで食らいつくものか怪しいものだが、手詰まりのカクウ様には丁度良いエスケープロードの出現ってわけだ」


 内戦?


「カクウがお姫さんぐらいカリスマふるって貴族共さひれふさんや期待せんでもなかが、あんたタダのか弱い女じゃて、この卑しい王都の北地区の救世主にはちょいパンチが足りんでな。奴隷かてな、黙ってくすぶっとぉ連中ばかりやないけんなぁ」


 奇襲をかける気だ。


 







 あたしはどこまでいっても誰かの邪魔な存在らしい。でも中途半端に必要で、でもそれは貴族という地位であったり、姫様という背景だったり、トキヤの友達っていう付属品であることだけで。本当のあたし自身は考えることも行動している内容も人から目障りに思われるものでしかないんだわ。


「出して・・・。こんなのって無い。こんなの・・・」


 貧民の住む北区画の駆逐を計画する貴族。内戦を仕掛ける機会を図っていた隷属達のテロリスト。一方的にいたぶるはずだった軍の連中だって奇襲されれば痛手を負う。武勇に限れば騎士は個々が飛び抜けているのが我が国の特徴だけど、姫様が出て行ってまだ日は浅い。彼女を崇拝していた騎士の傷心は戦いにどれほど悪影響を及ぼすかしれない。


 だけど、それはあくまで完全な奇襲で無いといけない。


 武力で対抗するには力に子供と大人程の差ができる。同等にやりあうつもりなら、あたし達が子供の頃にいつもやっていたように意表をついてやりこめるしかない。だから、貴族達の計画を知っていることを貴族達に知られては困る。妙な動きをされては困るのだと言った。つまり東の裏町に事を知らせて逃がすなり警戒を呼びかけるなりされると都合が悪いのね。無防備にしている彼らの命こそが囮にして伏兵達の傲慢な盾。


「勝敗は五分と言わないまでも、4分ぐらいはやってもいいと思いますよ。老いぼれ共はともかく若い騎士はミアが出奔してから本気で覇気を失っていることでしょう。負ければ全滅、勝てば下克上。単純でこれほどわかりやすい作戦もない。勝てないまでも、ある程度善戦すれば国全体でくすぶっていた連中が一気に武器を城へ向けます。貴方の地位剥奪からこっち見張り機会を狙い続けていたというところでしょうが。貴方を革命の盟主に祭り上げる気のようだ」


 オルゴさんは子供達にあたしの世話を言い渡すと、比較的崩れていない石壁の部屋にあたしを閉じこめて姿を消した。子供達はあたしじゃ到底通れない小さな穴から出入りして山菜と水を運んでくる。扉は外側からつっかえをかけられてびくともしてくれない。窓は頭ぐらいしか通りそうになかった。


 准尉は壁に背を預け膝に顎を乗せながら、獣が獲物を狙うように上目遣いでヒタリとあたしを見つめながら口だけ動かし続ける。こんな時ばかり饒舌に。


『危ない事をしょーやなし。閉じこめんが一番。あんたらの目的も背いちゅうわけやなし。えー条件じゃて、協力するじゃろ?』


 返事をせず、黙って准尉は座った。


「お願い、准尉。このままじゃ、まともに攻撃を受ける住民は殺されてしまう。戦いに勝ったって、みんなが死んじゃ意味が無いわ。こんなの最悪の結末じゃない」


「ならばどう切り抜けますか?貴方の作戦がマシだと思えれば出してあげましょう。ミアとトキヤの無実を認めさせるにしても、襲撃回避の作戦にしても、連中がやろうとしている事より良いとは思えません。ここでくすぶり、負ければ隠れ逃げ、名前だけ貸してやれば良い。それが一番カクウ様にとって良質な存在意義となるでしょう」


 これは、准尉との信頼関係を持とうとせず、話し合うのを後回しにしてしまった咎ね。


 少なくとも助けようとしてくれて目的も同じくしてくれている彼は、だけど、あたしの考えに必ずしも沿おうとしてるわけじゃない。当たり前だけど、彼には彼の思いがあって、あたしはきっとその何かに背いたのね。今まで飲み込んでいた言葉を今、形にしてる。


 でも今は仕方がないって諦める瞬間じゃないよ。多少の犠牲なんて言葉はいらない。あたしにとって、誰かにとっての大切な誰かの命が刃の前に立たされようとしている。


「そんなもの求めていないんです。最初から気持ちは変わらない、ただ大切な人が無事であれ。愚かで脆弱な自分、舞台の中心に立つ主役になれないことを知ってる。ただ脇で彼らに置いていかれる空気に等しい場を繋ぐための自身」 


「もっと自分を哀れめよ。中途半端な自身が平民へも貴族へも、まして奴隷に堕ちきることもできないことを。誰が貴方の言葉を真摯に耳を傾けたのか。そう・・・もし貴方を認める存在があるとすれば、それは、同じ半端ものである・・・」


 あたしの言葉は空気だもの。雑音はうるさく思われ意味を解さない。


 ああ、でも少し反論できるわ。


『なあ、カクウ』


 目を瞑る。


『また親父さんに叱られたのか?そんなに凹むなよ。まあ、俺だって父ちゃんに毎日怒鳴られると思ったら肝が冷えるけど』


 色鮮やかに思い出せる。こんなにはっきり姿をまぶたに写し出せるのに、どうしてこんなに遠いのに。


『お前、悪く無いぜ。頑張れよ。悪く無いのに引っ込むなんて癪だろ?絶対諦めんなよ。どうしても自信が無くなっちまうってんなら、そうだ、なんでもかんでも俺を信じてろよ!』


 信じてるわよ。


『んでもって俺はカクウの事を信じてる。なあ、どんなに絶望しても凹んでも泣きべそかいてもカクウは負けない。俺が認める1番凄え奴だよ。お前の一番凄い所は、何回挫けても泣いても何度だって真っ直ぐ上を向いて立てる所じゃん。ほーら、立てよ、カクウ』


「こんなあたしでも認めてくれる人がいないわけじゃない。これは確かだって自信持って言える。これだけですけど、あたしがあたしを肯定出来る切り札です。あいつの期待を裏切りたくない。ううん、あんな風に言われたら裏切れないんですよ」


 ポッカリ空いちゃった胸に、希望とか光とかゆう物の代わりにドロドロした気持ちばかりが溜まっているっていうのに。


 窓と、子供達が静かにうずくまっている小さな壁の穴、それから固められている扉を見る。


 ここで止めれば可能性は0%に変わる。行こう。崩れているぐらいなら、あの辺りは老朽化して脆いはず。少しずつでも指がもげても穴を砕けば間に合うかもしれない。


 子供達はあたしが近づくと穴からするりと逃げていく。


 膝をついて穴に手をかけ、壁を押し引きして破壊を試みる。石が砂になってザラザラと手につく感触がする。揺れも崩れもしない。


「諦めたく無い。あたしは哀れなんかじゃない。ああ、なんてあたしはすぐに揺らいで不安定で情けないの」


 これじゃあ、トキヤがいないと何も出来ないって証明にしかなりやしない。


「脇役だっていなけりゃ世界は動かないはずなのに、まるで全て主役の手柄のように注目される。舞台の真ん中になんか立たなくたって、無力なわけじゃない。誰かがなんとかするのは、その誰かが望む未来だけだもの。自分が欲しい未来を誰かが整えてくれるはずない。みんな自分の人生で手一杯だもの。泣き寝入りするもんですか。そうよ、オルゴさんの都合はあたしの都合になりえない」


 女は黙って家にいろ?よく考えれば失礼にも程があるじゃない。名前を勝手に使うつもりのくせに意見もさせずに閉じこもれ?冗談じゃないわよ。


「どこもかしこも痛いけど、それでもあたしが自分に課した使命だけは投げちゃいけない。あたしの目的をないがしろにする人に人生預けちゃいけないんですよ。可能性がある限り待機したくない。手伝ってくれとは言いません、でもあたしは行きます。行かせてください」


 ガコン、と壁の一部が歪な岩の塊になってもぎ取れる。両手分しかない。まだまだ諦めない。


「無闇に突っ走るのは終わりにしましょう。女1人の手で何が出来ると?無垢に人を信じる心が何を生む。貴方は祈ることしかできない天使のようだ。ただ人から聖と呼ばれる。口だけならこんなにいろんなものへ目を向けられる。行動が伴わないまま事態だけは進む」


「集中力がないことを責めてるんですか?役に立たない無能さを。どうすればいいか悩んで、失敗は許せませんか?」


「何もせず目立たずいれば標的にもならずにすむのに、あくまであんたは動き、標的となりえる場所に立つというのか。何もしない、刃の届かない安全な場所へ逃避する罪から、全てを動かし揺るがそうとした罪へ。正しくいようとする姿も戦おうとする気持ちも、為せないなら悪と呼ばれるだけなのに」


「貴方も憎くなったの?何もスマートにこなせない不様なあたしが」


「・・・・・・いいえ、けして」


「目的って結局ただ1つなのよ。あたしのエゴで、大好きな人の生活を守りたいだけ」


「不様と呼ばれても?」


「それでもトキヤは誇りに思ってくれる。それさえ思い出せばあたしは何度でも立ち上がれる。危なげに見えても、それだけで折れずにいられるから」


 浮かぶ笑顔に無理は無かった。ねえ、あたしにとってもあんたが誇りよ。トキヤがこんなあたしを何故か信じてくれているように。理屈なんかじゃないぐらい強く強くよ。


「・・・あんたはいつでもトキヤ、トキヤ、トキヤ、トキヤ。こうるさくてイライラさせられる」


 一拍おいて、准尉は立ち上がって背後に立つ。


「あの奴隷が王侯貴族との喧嘩を代行すると言ってるんです。任せればいいでしょう」


「オルゴさんはあたしがしたのは貴族を挑発する事だと。そして平民の誰かを煽ったと。それを好機として戦争すると言いました。何をするつもりか知りませんが彼らが勝てるとは思いません。そして、あたしに煽られた人物とはおそらくリキとタツノ。2人が行くとなれば、もしかしたら後何人かがきっとついて行って、危険にさらされる」


「元から戦力を整えて戦うつもりだったなら思惑通りでしょうが」


 あの化け物のように強い騎士に、大事な大事な友人達と戦わせようとしてたかですって?


「そういうことを言い出すのはいつもトキヤですわ。あたしは基本的に血を流す手段は最終手段にしておきたい派です。武闘派じゃありませんから」


「では、どうすると?」


 手段はともかく、できることならと描いてた未来。


「心を1つに。始めはトキヤとミア様を助ける術を考えてほしかった。あたし1人よりきっと良い考えが浮かぶから。次に貴族の横暴に対抗する姿勢をみんなに持ってもらう思想を広げたかった。騎士達がいくら強くとも、国民が団結すれば何百万の軍と同じく強くいられる」


「自分をできるだけ安全な場所へ。また、大事な人を危険に晒したくない。それが人間でしょう。隣の誰かに慈悲など。戦う暇はない。生活に苦しんでいる者には。暇と力を持て余す者だけが革命を考える。統率や団結は不可能です」


 女特有の甘い潔癖な理想。血を流さない革命は長い時間と苦しい弾圧に晒される。うまくいく試しがあるのか、実証も少なく脱落する大多数を止めることはできない。そう言い切ってしまえば1%が0%に変わる。駄目じゃない。そう、誰が駄目だと言ってもあたしだけは可能だと言い続ける。


「身分制度って、仲間割れを誘うと思いませんか。奴隷も裏町の人達も生活に困窮しているのに、互いを疎んじてる。自分たちよりも卑しいと。自分たちを蔑んでいると。あたしも気づかず差別しているかもしれない。でも、本当なら関係なく手を繋ぎたい。そんなことで縁が切れてしまうのは悲しい。あたしたちは手を取り合って生きればもう少し優しい世界にできるはずなんです。目指したいんです。後、少しだけ。少しずつ」


 何も完璧なんて目指してない。


 少しでも良いのよ。


 もう少しだけ優しい世界になればいい。


「贅沢ですか?あたしは貴族で、奴隷で、無能です」


 言ってて虚しい。


 背後に立ってあたしを見下ろす准尉を見上げて、彼の手を見た。荒れてて、固そうで、あたしとは違う世界を生きた人の手。逃げようとしたあたしを追ってくれて、連れ戻してやると差し伸べてくれた手。


「もうあたしの手をとるのにうんざりしました?」


「俺は奴隷です。死人も食った。貴方が思うよりずっと血生臭い卑しい生まれだ。腹の中も比べようもなく黒く」


「手をとるということをトキヤが始めた。あたしはその手をつかんで、タツノやリキもあたしの手をとってくれた。広げていくんです。少しずつ。全ては無理でもいつか波が起きる。小さな波から津波へ変わる」


 あたしは図々しいかもしれないけど、いっこうに崩れてくれない壁から手を離して准尉に手の平を向けた。


 拒まれる事を恐れても、手を掴むことを止めてはいけなかった。


 トキヤがいなくたって、色町のみんなと過ごした日々も手をとった温もりが嘘になったわけじゃなかったのに。


「餌なんて持ってません。挫けて、たまにウジウジするつまらない女です。なのに、貴方は見捨てないであたしを迎えに来て手を差し出してくれた事がありましたよね。感謝、してもし足りないぐらいです。でも・・・でも足りません。チャンス1つじゃ、失敗してしまったみたいです」


 優秀なヒーローのようにチャンスを物に出来ない、弱い雑魚だわね。


「少しでいいから、もう一度手を貸してくれませんか?ナルナ・コルコット准尉」


 膝をついて手を伸ばすあたしは物乞いをする奴隷そのものね。


 みっともなくていいわ。


 何も怖く無いなんてかっこつけられないのよ。


 准尉はあたしの頭上の壁に片腕をついて頭をつけ、天井を阻んで覆いかぶさる形で見下ろしてくる。伸ばしたあたしの手を、力強く握って。


「3つ条件があります」


 体を固くして神妙に頷くと、准尉は目を細めた。


「まず俺の呼び名をナルナとすること」


 目を丸くして見上げると、准尉は目だけそらして口元を笑わせる。


「次に話す時のその敬語をやめ普通にどうぞ。他の連中と別に切り替えられると不愉快でした」


 目をつむって、少し間を開けて握った手を准尉は口元に引き寄せて膝をつく。


「最後に、近くにいないトキヤに助けを乞うのはやめて俺を呼ぶよう。カクウ様、あんたがすがるなら王宮にいる連中全てに剣を向けたってかまやしない」


 近すぎる場所まで顔が寄って、また後頭部を壁にぶつける羽目になる。至近距離で開いた瞳の中は、やっぱり闇色で吸い込まれそうに揺れている。


 綺麗だと思う。


 冷たくて激しく強面で整ってはいるけど、お世辞にも好感を持たれる類の外見じゃないけど。


 自由な手で自分の手と一緒に彼の手を自分の胸の前に取り返して笑う。何を恐れることがあるの?色町で一体どこに優しそうな面構えした人がいたんだか。リキ辺りは温厚そうだろって言いそうだけど、悪戯や乱闘している時の表情はみんなわっるい顔してるのよね。スラムほど凶悪面じゃないけど。


「じゃあ、ナルナも同じようにしてね。本当は敬語苦手なんでしょう?手を取り合うならあたしたち壁をまず少しずつ崩すべきよね」


 距離も溝も壁も、縮めて飛び越えて叩き壊す。


 きっと出来る。だって嫌いじゃないわ。無表情で凶悪面で無口で、たまに口を開けば毒を含んだ物言いをする人だけど、仲良くしたいと思う。


「壁、ね」


 溜息をついて准尉改めナルナは手をあたしの両手から引き抜いて腰に手を回してくる。


「きゃ」


「ガキ共、離れてないと一緒に吹っ飛ばすからな」


 体が捻られ腕に風がかすめるのを感じた瞬間に背後の壁から爆裂音と爆風が襲った。


 あっけにとられて口を大きく開けて振り返れば、壁が・・・・・小さな穴から大きな穴を開けた壁に変わっていた。砂と瓦礫が床に落ちる。無表情だった子供達の顔は真っ青で、はっきりと驚愕に変わっていた。


 なんだか人形のようだった子供達がやっと人間のような反応をしてくれた事に嬉しさを感じる、ずれた感想が頭の中に浮かぶ。


「お次の命令は?」


 そのまま抱き上げられて、ナルナの首もとにすがりながら大問題に表情をしかめる。


 オルゴさんからもっと情報を引き出しておくんだった。本当に無能なんだから。彼らがどのタイミングで何をするか聞き出しておけば良かったのに。


 いいえ、最悪から消していく。


 きっと取り戻してやる。何回絶望して、どれだけ泣いて挫けても、あたしは立つ。枯れかけの地味な蕾とどれだけ馬鹿にされようと、ここが大勝負よ、大きな花を咲かせてみせる。


 あたしの雑草魂、盛大に魅せてみせる。




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