シュードラ5





 黒の上着、ノリで固められたズボン、剣のベルトに紺の無骨な剣、後ろに撫でつけられた髪。奴隷の少年騎士の誕生は事実だけではなく景観も乱す。違和感のある無機質なセリフと、硬い物腰、突き刺さる程の敵意。


「では、話は終わりだ。各自持ち場へ。それから今日から少年騎士となったコルコットの持ち場だが」


 少年騎士の監督上官。つまり俺が従わなくてはならないとりあえずの男が煩わしそうにチラリと目を寄こす。朝の集会として訓練所、あの試験をした場所で少年騎士が並んでいる。隊列を組むというやつだろう。俺はそこから10m離れて立っている。そういう命令だ。


「そこから動かず見張りをしていろ。終業時間まで何もするな」


「ショウチイタシマシタ」


 解散という言葉で散り散りに隊列が崩れていく。その少年騎士達の視線が蔑みと嘲笑いを残していく。


「同じ服を着ても」


「まるで死体のような肌に」


「気持ちの悪い」


 同じ服を着た中で明らかな異物感、明るい華やかな花畑に1輪だけ枯れた黒い花のように、俺自身ですらそう感じる。暗記したままに言葉を返し、騎士として見張りの姿勢をとり、覚えこまされたように何もない広場の中心で辺りを見まわしながら立つ。


 そして辺りには誰の気配もなくなった。おそらくこの訓練所の入口に2人の騎士が立つ以外には。だだ広い中でポツリ。見張りの役目は心得ている。屋敷を襲っていた俺を邪魔していた連中と同じことをすればいい。延々とここにいる意味があるかどうかは謎だがな。


 城へ来るまでに躾を強化された意味があまりなかったな。


 痛まないようにやんわりと服の上から腕を撫でる。間違った答えを口にしたり遅かったりするとペンで正解を腕に書いて体に覚えこませる。インクは使わない。ペンを刺し込んで俺の体に刻むからだ。リリスは、俺が痛みに弱いことをよく知っている。


 血が滲まぬように丁寧にメイドに巻かれた白い包帯、力を込めねば血が滲まず服を汚して殴り飛ばされることもない。


 黙って立ち尽くして何時間かたつと太陽は頭上まで昇る。いくら経とうとも上官の男は現れない。時々、朝に同じくここにいた少年騎士が飯をすませた様子で廊下を渡り俺を指差し一言何かを言い合って去っていく。途中でダンドロが現れ、辺りをうかがいながらパンを押し付けて行った。俺は任務中に物を口にするなと躾けられている。


 貴族であれば問題無いことも奴隷だと罪となる。


 パンを口にしかけて、手を下ろしてそれを見つめて食うのを止める。これはポケットにしまっておき様子を見るべきだ。俺は学習する。あの上官は確か見張り以外は何もするなと言った。休憩して良いとも食っても良いとも言わなかった。貴族の仕掛けた罠にせよ、ほどこしにせよ、上官にばれれば罰をくだすだろう。


 そして、それが正解だった。










 ゴセルバかダンドロがいる時にはそれぞれが俺の状態を確認しに来る。休憩時間というのが勤務中にはあるようだ。もちろんそれは貴族だけの特権で、俺は必ずこの訓練所の中心で連中の訓練している様を見学しながら立たされている。飯に関してゴセルバが何か上官に言ったようだが、終了間際に城のキッチンで何かを恵んでもらうよう言い渡されるだけで連中と同じように途中の休みはなかった。


 曇りと雨の日は良い。問題は太陽が暑い場合だ。朝から夕方にかけては一番酷い熱に肌を焼かれる。袖は長くしているが手先と顔は完全に日に焼かれる。夕方になれば赤く腫れ上がりジリジリと痛みだし、焼かれている最中は意識がやられる。


 腹が減るのは良い。朝と夕方、夜には餌にありつける。だが、この痛みだけはいかんともしがたい。太陽を呆然と見上げても、あれをぶっ壊すことは出来ない。


 城でこうして立ち続けていく日目か、ヒラリと花びらをひらめかせて他よりも一層煌びやかなものが目の前に現れた。揺らめく陽炎の中であやふやな焦点の中で記憶を探る。確か俺がこの城で従うべき頂点の女。


「騎士服似合わないね。ここまで似合わないなんて初めて見たよ。誰にでも合うようなデザインなのに」


 銀糸を垂らしたように髪をシャラシャラ鳴らして近づいてきた少女は、今日は誰も側につけずにいた。メイドや兵士だ。前には大量に群がっていた。


 俺は教えられた通りに動いた。熱でわいた頭のまま。


 片膝をついて胸に片手をそえ、頭を下げ、決められた言葉で、割り振られた役で、ただ1つの出会いを再現するために馬鹿らしいこの見世物を演じ続ける。例え血の雨に降られるスラムより残酷なシーンでも。今は誘惑に為す術が無いのと、それを演じられるだけの道化の意味を、知っている。


「御機嫌よう、ミア姫様。本日は美しいご尊顔拝見賜り光栄の極みにございます」


「棒読みだよ。そういうのは大嫌い。顔をあげて」


 命じられるままに動く。だが、俺はセリフを間違わなかったのに不興を買ったらしい。面倒な。この女も微笑みとやらをつけろという系統のやからか。やろうとしても引きつるだろう。


 笑み。


 これだけはどうしたって出来なかった。


「まあいいや。行くよ、私の騎士。筋書き通りの言葉はいらない。敬語が苦手なのはゴセルバから聞いたから知ってるから、私のためにナルナだけの言葉を聞かせてくれればいい。こんなところで飼殺しにするために私は貴方を求めたんじゃない」


 鮮やかに笑う、髪が弧を描く。


 手を取る小さな柔らかい手に言葉がさまよいセリフを失う。上官がここに立ち、終わりを告げるまで立ち続けろと命じたのだ。それを破れば罰が待つのではないのか。熱で頭をやられたのかもしれない。誘惑のまま城に来て俺は初めて建物の中に引き込まれる。いや、熱以上に教え込まれた以外のパターンが行動を迷わせる。


 この少女は演じる俺を隠す闇を、消す月?










 城の中を兵士や騎士の目を避けて歩いている。時々ははち合わせて俺を不信の目で見咎め、この姫に俺から離れるように言うが答えは必ずNO。


「これは私の騎士だから構わない。しばらく見ていたけど、育てる気も無さそうだもの」


 強引にその場を乗り越え、騎士をかわし、メイドを膝まづかせ、人通りが途絶えたうず高い塔で姫は立ち止まった。この場所が目的地らしい。窓際に柔らかそうなクッションを敷いて動物をかたどった布を抱いて俺に手招きをする。


 側に膝をつくと窓の向こうに顔を向ける。


「あそこにいたんでしょ、ナルナは」


 改めて窓の外見れば、言われてみればそんな気がする景色がある。どちらかというと行ったことのない西の裏町が割を占めている。


「1度だけ私、行ったことがあるよ。ねえ、ナルナはあそこに住んでたの?」


 首を振る。


「じゃあね、行ったことは?」


 もう一度。


 姫は口を尖らせて振り返る。


「話が切れないように繋げようと思わないの?」


 いちいち名前なんざ知るか。俺はあそこに住む、どの人間の名前も記憶していない。


「なんで喋らないかな」


「口の聞き方を間違えれば殴られる。・・・です」


 姫は噴き出す。


「変な喋り方。敬語苦手なのは聞いてるってば。いいよ、だから他の人がいない所に連れて来てあげたんだもの。お喋りしてよ」


 喋れと言われて何を喋ればいいのか分かるわけがない。


「タイセと対局的だなぁ。黙っててと言っても口が止まらないのに。どうすれば喋れる?好きなことでいいのに。殴ったりしないしさせないのに」


 クッションにクタリと寄りかかり、こちらを見上げる姫から離れたまま膝をつく。壁が背後に気配を感じるぐらい離れている。


「警戒した猫みたい」


 窓に手を当てて目を細め遠くを眺める姫が扉を指さす。


「私は少し眠るから。ナルナも寝るといいよ。えーっと、命令ね」 


 手近なクッションを手渡しに歩いてくると、腕の中に柔らかな毛触りのクッションが押しつけられた。また戻っていく途中で、立ち止まり姫はこの距離なら良い?とクッションに飛び込んで丸くなる。そうしていると本当に花のような錯覚にとらわれる。


 俺は手元の馬鹿でかいクッションと姫を見比べる。一人で寝るに寒い季節ではないが、縮こまっている時は何か温もりが欲しいものだ。連れてきた意味は?手招きしていた真意は・・・。小さく細く、すぐに壊れそうな白い・・・・・。


 白い手。


 しばらくして、寝息が聞こえてくる。本気で寝たらしい。兵士がいない場所で俺を前によく呑気に眠れるものだ。いや、今は俺もこの姫を主とする兵士になっているのか。


 寝息が乱れないか耳をすませがら少しずつ、音と気配を消して側によっていく。そっと白い指をつまむと、反対に曲げればすぐに折れそうだ。寝ている顔を間近で見れば睫毛まで薄い銀。売ると高い宝石に似た色で出来た人間だ。さぞかし売れば姫自身に高値がつくだろう。人間を捕まえたことはないが、闇町の闇市ではよく人間の取引はされていた。子供だし小奇麗にしていれば俺も売れるかもしれないと捕まりかけたことがあった。逃げおおせたが。


 子供で、綺麗で、弱そうな姫なら俺でも捕まえられる。この城から持ち出せるかはともかくとして、手を引くだけでもしかしたら口の回らない俺が騙すまでもなく連れ去ることができるかもしれない。


 指が俺の手に絡んで握り締められる。傷口に触ったが、温かいその手を離さずに俺は姫のクッションに身を軽く預けた。温もりが血の気の引いた俺の手を温めるから。










 ウルサイざわめきで目が覚めた。


 姫と繋がる俺の手を見て、口々に騒ぎたてて体が引き離される。目をこすりながら起きた姫がぼんやりと俺を見ていた。


「無礼者が!奴隷の分もわきまえず」


 殴る手を両手で俺は受け止めた。その隣で剣を抜く音が聞こえて、首に熱が走る。慣れ親しんだ殺気と剣筋に後ろへ飛び退ったが少し足りなかった。血が噴き出る。


「止めなさい!ナルナに何するの!?それは国のじゃなく私の騎士だよ!!」


 トドメを刺そうとした騎士との間に飛び込んだ姫が剣に無造作に手を伸ばす。危ないその手を捕まえて俺は後ろに引っ張り倒して体ごと受け止め地面に倒れる。周りがまた騒いだが、姫は生暖かい俺の血を見上げて目を強張らせた。










 このトラブルの後には、姫いわく、俺にどうでもいい役目を与えて立場を宙に浮かせずコキを使いながら行動を見張る作戦に出たらしい。俺は日がな一日訓練所で立たされる状態から、別の少年騎士と同じく仕事を覚えなくてはいけなくなった。それも、遅いスタートから急速に完璧に誰よりも多い量を。


 その隣をすました顔で歩く姫が。その姫の周りには家庭教師や通常の少年騎士の護衛、大人の騎士の護衛。ぞろぞろと引き連れながら、その実、向かっている先はゴミ捨て場だ。訓練所の模擬剣を新調するので全て捨ててこいという命令だ。これだけいるのなら全員がゴミを持てば往復回数も減るのだろうに、ガチャガチャと音を鳴らしているのは俺1人。


 まあ、姫に奴隷の側に寄るな触るなと説得して、俺から護衛するのに忙しい貴族共がゴミを触る理由がないんだろう。間抜けにも1日中往復し続け、その半日分の時間を集団で歩き回った。


 なんにせよこの姫ときたら懲りない。


 国王陛下とかいう貴族の親玉が命令をした時の態度も自由なものだ。


「私から友人を奪っておきながら、自分で手に入れた騎士まで取り上げようとする。ナルナは私が騎士として召し上げ、私の騎士として登録してあります。これは私のです。意地悪をするならこの先、勉強もしないし式典にも出ないしパーティも全部欠席します。来月あるお母様の生誕祝いにもです」


 口うるさくは言ってきても、この姫が押し勝っているのは明確だ。親玉だというなら小さな姫の権限より強いものを持っているだろう。周りの連中に俺の騎士としての契約を破らせていつでも殺してしまえるはずだ。理由はなんでもいい。俺が奴隷だというだけでもだ。なのに口だけを出してくる。


 つまり、この姫の脅しが効をなしているんだろう。


 側にいても姫が一方的に喋るに尽きる。俺が口を開けばリリスに散々痛めつけられながら学んだセリフしか頭に刻んでいないのだ。それ以外となれば自然に周りの人間の顔が厳しくなる。殴られるのは必要最低限にしたい。なのに姫に声をかけられれば答えないわけにもいかない。無視すればそれはそれで攻撃されるからだ。俺は痛いのが大嫌いだ。だから適当に汚がって距離を置いてくれる奴の方が非常にありがたい。口で罵るだけなら痛くも痒くもないからな。


「ミア姫様が飽きれば」


 耳に届いた声で隣のチビ姫に目をやる。


 なるほど。


 だが、この姫が俺に飽きた時が俺の死期かもしれんがな。


「あ、ナルナ今、笑った?」


「私は笑いを存じません」


 だが、もし笑ったというなら笑ったのかもしれない。貴族が俺に向けるように俺自身もこの馬鹿馬鹿しい運命を。










 あの姫が俺を自分のものだと主張すればする程に、周りの人間の行動がエスカレートしていく。仕事の量が増え残業というものをしなくてはならなくなった。戦闘訓練も以前は俺だけ弾かれていたが参加するように路線を変更してきた。訓練に限って言えばダンドロに及ばないまでも、ガタイの良いギリギリ少年にあたる連中が俺の相手になった。


 屋敷以外でここまでボコられるのは久々のことだ。


 鼻血を出して、口を切り、皮膚がずるむけになり、痣を作り。騎士になる前のシゴキよりは見た目が酷くなった。ダンドロもリリスも顔や服の外に出る部分を攻撃することがなかったからだ。城の貴族連中は地面に叩きつぶした俺を見て満足する。

 その瞬間だけ。


 訓練を終えた俺を見つけた姫が近寄ってボロボロの俺を見ればムッとして医者に治療させろとわめく。このせいで仕事が遅れるので俺は正しい言葉というのを使って断った。だがうまく伝わらない。こんなもの、見た目が派手なだけで屋敷のシゴキや調教に比べればマシなものだ。医者はいらないと早々に姿をくらますようになれば、今度はどこかからかき集めたらしい手当道具を持って訓練所の入口で姫が出待ちするようになった。


 このやりとりを見て貴族連中は苛立ちを募らせる。しまいにはゴセルバやダンドロまで少し態度が冷たくなる。勝手なものだ。俺を騎士にさせようとしたのは何処のどいつなんだか。


「嫉妬してるんだよ。私が可愛いから構って欲しいの」


 俺の不機嫌な顔を読み取って姫がアッサリと言い放つ。確かにゴセルバなどは姫を褒め称える言葉が常に尽きない。他の少年騎士にしても、周囲の称賛からもそれは聞こえてくるが、それがどう関係するのか。


「いざとなったら優先するのは王の命令なくせに、みんな私に目をかけて欲しいんだよ。離れて行っちゃうくせに」


 小さな赤い唇をキュッと閉め、周りに聞こえないだけの声で俺の耳に囁きかける。


「でも、ナルナは私が飽きたら城にいられないよ?だから」


 離れるよう周りが叱咤すると、姫は俺の耳から唇を離して笑う。


「私の側にちゃんといてね」


 傲慢な言葉なのに、揺れるその目は不安そうな。










 屋敷への帰りは馬車が迎えに来る。城では一応警護の名目も持つ少年騎士だが、門から1歩出れば兵士に守られる貴族。俺はそれに飼われる奴隷に戻る。


「ミア姫様はいたくお前を気にいっておられるな。失礼なことしてないだろうな」


「してない。ゴセルバ達の嫉妬がウザいとは言っていた」


 貴族に混じって言葉を聞いていれば皮肉ぐらい俺も覚える。










 姫の他にもう1人、城で俺にまとわりつくのがいる。役職を持たないためそう滅多にいるわけではないが。


「今日はねぇ、パパがどうにかナル君から姫のご興味をそらせるように、お相手をしてきなさいだって。僕がナル君の推薦状に口添えしてってパパにオネダリしたの忘れてるんじゃないの?ミア姫様の食いつきっぷりに慄いてるんだよ」


 タイセ・ピューツ。どこぞの貴族の息子らしいが、少年騎士でもない。あの姫の相手をするために連れてこられているようで、そういう時には俺の前に現れる時間が少ない。代わりに来る時はタイセもセットでダブルの煩わしさだ。


「ピューツは親馬鹿って罵られてたよ」


「そのお陰でナル君の推薦が通ったんですもん。ミア姫様褒めてくれるでしょ?」


「偉い偉い」


「わーい」


「ありがとうは?ナルナ」


「感謝を体で表わして僕と遊んでくれるといいよ」


 仕事がまったく進まない。廊下は進んでいるのに能率というのがまったくあがらない。口をきけとしつこくせがまれ、しぶしぶ喋れば口のきき方がなってないと叱責が飛び閉口する。それでも2人がギャーギャー言うので喋るはめになる。敬語の使い方を周囲があまりにも言うためか姫とタイセが俺の口調を正しい敬語とやらに直したりもして。


 俺を挟んで喋る姫とタイセは煌びやかで目がくらみそうに笑う、笑う、笑う・・・。


 仕事が終わり、今日は残業のためゴセルバは先に帰っている。門から屋敷まで1人で帰る道すがらで自分の口元に手をやってみる。


 笑うとはどうすればいいんだろう。










 珍しく周りは静かだ。


 常に側にいるわけではないが、まるで見張られているように姫が城では大抵隣にいる。いて欲しいわけではないが、いつもと違う状況は体が異常と判断する。周りを確認し、いないのならば今のうちに仕事をすませようと思い至る。今いないからといっても帰るまでには現れるかもしれない。


 大事な書類とやらが大量に入った釘で閉じられている箱がまだいくつも西棟に残っている。焼却場所まで後124往復しなくてはならないのだ。そこまで溜まる前にさっさと燃やせばいいものを。


 ふと、南棟にさしかかる少し前の庭で銀の尻尾が植木の間になびいて消えた。


 あの色を持つのは知る限り王族だけだ。そして頭の高さからいって姫の髪先だったろう。いつもなら周りに大量にはべらせている護衛もいる様子はなかった。ひっそりと庭に消えるのではなく、付き人が軌跡のように周りにいるはずなのに。


 関係ない。


 俺は一度立ち止まった足を進めた。


 焼却炉に箱を放り込み、俺は西棟に歩いて行く。その足が段々と早足となり、ピタリとあの場所で立ち止まった。庭をもう一度振り返る。そこには何もない。いるはずがない。行く、必要もない。


『私の』


 瞬きをして、仕事が残っている。また残業になるだろう。箱を運ぶだけが残りの仕事じゃない。訓練とやらは夕方の定刻にある。それまでに少しは始末しておかねばならない。


『側に』


 廊下の窓から体を庭へ跳ばす。柔らかな草を踏みつぶし、俺は小さな足取りを自分で重ねていく。消えた植木には誰の姿もない。精々がリスだ。風が吹くと甘い花の匂いと草の水気を感じる。どこまでも乾いた石と瓦礫ではなく、血と腐臭でもない柔らかな。


 目を閉じると、小さな声。


 静かに気配を消してそちらに歩み寄る。そこには、小さな細い体を更に小さく丸めて顔を覆っている姫がいた。どう話しかけようか迷った末、草をカサリと鳴らして音を出して気を引く。すると顔をあげた姫の顔には涙があった。怪我をしている様子はない。


 目をこすり、かたわらにあった紙を拾って姫が黙って去ろうとしたが、囲まれた死角にいたせいで出口には俺がいる。しばらく黙り合っていたが、いつか姫の方が根負けするだろうと待っていた。何かしら喋ればとにかく何かの展開があるだろう。俺の行動はそれで決めれば。


 だが、黙ったまま。


 正しい言葉はなんだ?


 喋らないというなら俺が何かの行動をしなければならない。仕事に戻るなり、ここを去るなり、ああ、塞いだ出口を開けば良かったのか。


 身じろぎして出口を開ける。だが、姫はもう動かずに立ちつくして地面を見ていた。


 どれくらい時間が経っただろうか。


 小さな肩は、握りしめられた小さな手は、見えない顔には、煌めきなんかない。ただ髪だけが夜の月明かりのように日を反射して揺れている。その姿が何かを蝕んでいるような気がした。震えて死を恐れ身動き出来ずにいた闇町で、俺が感じていたものを未だに俺はなんと名付ければいいのか知れない。だが、それはこんな形だった気がする。そう、俺はなんとなくこの姫が求めているものを理解できる。


 そっと手を伸ばす。


 その握り締めた手はつかめないから、代わりに振れやすい場所は、頭。


 どこでだろう。


 頭を撫でる。髪が柔らかく指の隙間に滑り込む。


 こういう場面をどこかで見た。


 驚いて顔をあげる姫に、正しい言葉は知らない。だが、多分この手は間違っていない。そうか・・・白い手は俺をこうやって癒した。


 姫は泣きながら笑った。


「へへへ、えへへ」


 照れたように俺に近づいて、腰にしがみついて胸に顔を押し付ける。遠い記憶にある人の温もりだった。おそらく、この姫が求めるのは俺と同じものだろう。飢えに喘ぎ行き場を失くしているものが。


「心が挫けたの。諦めたらお終いって言うけど、頑張るって難しくて寂しいの。寂しいの、いないと寂しい」


 その紙は手紙なのだと目の端で思う。その誰かは姫の側にいられないのだろう。王の命令。離れていく。それに反発する小さな姫。


 寂しい。


 ああ、そういう名なのか。この気持ちは。


「離れなければいいのか」


 これは辛いだろうな。


 だが、それは俺で和らぐ飢えなのか。それならどうすればいいだろうか。


 目がチラリと俺を見上げる。抱きついたまま顔を擦り寄せて。


「仕事の邪魔をしなければ相手してやる」


 嬉しそうに笑う。


 食うのにも生きるにも困らない貴族のくせに、ここもスラムと変わらない。何も変わらない。住んでいる獣が違うだけで、卑しく、飢え、喘ぎ、求め、奪い合い、生きている。


 なのに果てしなく遠い。


 離れないというのは約束しきれないが、必要なくなるまではできるだけ叶えてやれればいい。



 






 蔑む目。


 はねつける腕。


 痛めつける悪意。


 投げつけられる拒絶。










 叶えばいい。


 涙を拭う姫の白い手に理由の分からないが、体に冷たい物が走った。


 白い、白い、姫の手は。


 俺の手は・・・そんな色にはならない。


 どうしてそんな事が頭に浮かんだのか、明確に形にはならない。


 形がない。




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