シュードラ8





 淡々と仕事をこなし、暗がりにたまに引きずり込まれる。勝つこともあれば負けることもある。オモチャにされることにはいい加減慣れてきた。ミアもタイセも側に寄ってこなくなった。静かなものだ。


 遠くから時たま視線を感じる。


 振り返れば恨めしそうなミアが目をそらす。


 ミアは、知っているのだろうか。俺が暗がりで何をされているのか。どちらにせよ話すことは無い。重く吐き気のする胸を片手で握りつぶして仕事に集中する。


 最近ではあの姫を見かける場所は修練所であったり、人通りが少ない上階外通路が増えた。そこで剣を振り回している。誰かに見つかっては取り上げられて、それでも何処かで力をつけようと新しく武器を手に入れてきては同じ事を繰り返している。何のために強くなろうとしているのかは誰も知るところではない。ただ、それを始めたきっかけに俺がいるらしいという事をゴセルバが漏らしていた。


 俺に害されるとでも思っているのか?


「そういうことじゃない。影響されているんだ。人とは周りにいる人間によって変わるものだから、ナルナは姫様に影響を与えた。修練しようとする行動も1つの形というだけだ」


「怒らないんだな」


「怒る?何にだ」


 屋敷のソファで寛ぎながら、ゴセルバは俺の行動を報告させる。仕事内容はともかく、叱責、喧嘩、理由、以前ならミアについてもだ。最初から全て言わされている。ミアに対する態度や、倉庫に現れて甘えることにも不機嫌を示していた。悪い影響を与えることについては特にうるさく気をつけろと。


 だが、結局ミアが変わった思うところはあっても特に怒ることはなかった。ゴセルバはリリス以上につかみにくい。


「悪い影響だと」


「姫様が剣を握ることを悪いとは思わない。口調に関しては思うところも確かにあるが、それで何が損なわれたか考えれば別に問題と僕は感じない。古い考えは成長の抑止力ともなる。それよりお前の最近の姫様への態度の方が問題だ」


 近づきすぎず、それでも不満を抱かせるなと。それは不可能に近い。ミアが欲しているのは甘える相手だ。俺がそれに応えれば不満を持つ者がそれだけ増える。敵が際限なく、その中にはゴセルバも含まれているだろうに。


「近づきすぎたから、正しい距離を保とうとしているだけだ。俺は奴隷で周りは貴族。自分の立場はわきまえる。痛い目に合うのは嫌いだからな。コツがまだ分からないから不自然に見えるだけだ」


「そんなことでは困るんだがな。お前には確実に姫様の心を繋いでもらわなければ、せめて僕が自分の地位を確保するまでは。リリスの暴力に耐えてるなら城の連中ぐらいなんでもないだろう」


『気持ち悪い』


 知れば、ミアも離れていくだろう。繋ぎ止めるというゴセルバの狙いが何にあるのか分からない。だが、俺を駒にしてその役目は。


 あの目が嫌悪に変わる。


 歪み、蔑み、紡ぐ。気持ち悪い、汚い。

 

 






 従者を連れたタイセが道の真ん中に立っていた。城の外で見かけるのは珍しい。まだ城門からさして離れてはいなが、馬車をわざわざ降りて何かを見上げて惚けている。馬車を傍らに寄せ、従者に声をかけられても上の空だ。


 ディズの屋敷までの道が塞がっている。


 貴族の横をそしらぬ顔で奴隷が歩けば見咎められる。俺も空を見上げた。夕日が落ちかけている。ミアやタイセに時間を使わなくなった分だけ暇はある。屋敷に戻っても最近は勉強させられることも少ない。飯が用意されていて、それを食って寝るだけだ。


 リリスは俺で遊ぶのに飽きたのか、そういえばずっと見ていない気がする。そもそもゴセルバは城で見かけるが、リリスはどうしているのか。人間らしく演じ始めて、あの約束の時からかなりの時が経った。言葉を知らない俺が喋り、食器を使い、計算をし、剣を振るっている。調教され始めてからいくらもの時だ。背も伸び、筋肉をつけ、服をまとい。


 探しているのか、本当に。


 裂けたように口の端をあげて笑う悪魔は、俺が殴られている時に、犯されている時に、演じている時に、何をしているんだろうか。闇街やスラムにいるとすれば、見つけた頃に女神は生きているのだろうか。


 探す、気を感じない。


 以前に会ってからいくらも時が過ぎたということは、死んでいることだって可能性としてなくはない。見つけてやるというが貴族が約束を守った事はあったか?それは俺が想像する再会となるだろうか。


 屋敷に戻っても餌を与えられて、寝床で眠るだけだ。塞がった道はいつ開くとも知れない。


 東の裏町で女神を見ることはなかった。まだ探していない場所がある。


 俺は町の北西、もう1つの裏町に足を向けた。










 日が落ちたのに、そこは明るく華やかだった。同じ裏町とは思えない程に人が行き交っている。カタギの店が閉まる時間、住宅街なら静まり始めているだろう。だが、ここでは今がパーティの始まりとばかりに、人が集まってくる。


 赤、黄、青、提灯が狭く汚い路地を染め、甘い香りでむせ返り、頭を霞ませる。


 闇街ではそもそもが女をあまり見かけることがなかった。引きづり倒され奴隷商に並べられ、手かせに繋がれ売られているのが大半だ。だが、ここでは服をはだけさせて笑いながら提灯に照らされた女が男を手招きして家に呼び込んでいる。道ばたでは金を取り四角い粒を転がしているのを覗き込み盛り上がる連中。泣きながら何かを乞う男とソロバンを持った威圧的な男。死の香りはしない夢現の空間だ。調子の外れた音楽が鳴るが、どこかしこからも聞こえ統一性は無い。


 女がまともに生きていられるのは闇街よりも色街だ。


 闇街にいたとしても売られているか、生きるためにここで身を売っている確率は高いだろうという事が頭に浮かんだ。色街の知識がまるで無いわけでもない。ただ、捜し人が女であってどう生きているかまで頭は回らなかった。


 いるかもしれない。


 ただ、どうやって見つければいいだろうか。顔も名も知らず、いる場所も、いるかも分からずに。前よりも手にしたと言えば戦う力と金だけだ。探す力にも情報にもならない。


 金を手に出して見つめる。


「あら、坊や。遊びに来たん?」


 原色の安っぽい着物をはだけさせた女が顔を覗き込んでくる。肩と腕に手を回して、俺の手の平にのる金に指を這わせる。


「大丈夫、十分足りるわよ。遊郭は初めて?賭け事はよし時。手をつけるのはもう少ししてからでええから」


 手の平を握らせられる。


「良いべべを着て、随分とお金持ちやね。まるで貴族さんみたい」


 腰にある財布を撫で、それを通り過ぎてズボンの中に指が入ってくる。


「お店、入りたいでしょ?気持ち良くて官能的な遊び方、教えてあ・げ・る」


 手を引かれる。城で暗がりに引きずり込まれるよりも抵抗する気は起きない。裏町で女が一番いるのは遊郭。売られてくる。女神がいるかどうか探すには実際に見るしかない。もう一度会えば分かるかもしれない。この女かもしれないし、別の遊女かもしれない。だとして、遊女は飼われている奴隷だ。


 買われたなら、買い取り直せば良い。


 1人ずつ、全て見れば、これだけ女がいるのならいるかもしれない。


「さあ、ここ。じゃあ、靴を脱いで、ほら。楽しみましょ」


 気づくか、気づけないかは分からない。だが分からないような女ならば別に、いなくてもいいだろ。


 柔らかな女の体に触れる。


 頭に占めるのは女神だけではなくなって、必死になってまで求めていた姿は何処にも焼き付いていない。それでも、もうどでも良いと、諦めると言い切れないのは、まだ頭のどこかに染みついているのだろうか。


 あの温もりを忘れて、地獄を逃れたいと思えれば、少しは楽に生きられるだろうに。










 ヤられるよりヤる方が断然良い。


 使う場所も無かった金を遊郭で潰し、長い地獄を感じる体は快楽で濁す。


 昼は城へ、夜は遊郭へ。










 気怠い。


 夜をまともに眠らず過ごしていればそういう事にもなるだろう。何処からか遊郭へ通っている事も漏れて密やかでもなく囁かれるが、悪名が増えた所で今更思う所も無い。ただ増えたという事実だけが頭に残った。


 相変わらず雑用をこなし、サボっている時間を睡眠にあてる。


 適当に時間は無為に流れていく。そんな中で何ヶ月、顔を合わさない日を越えただろうか。修練所でミアを久しぶりに見かけた。


「次!」


 少年騎士を相手に剣を振るう姿は以前より様になっている。ご立派なものだ。周りの連中は手加減していると分かる者、既に姫相手に焦っている者とで別れている。腕を上げたというには随分と性急な成長ぶりだ。元からあの細い体は戦いに天部の才を持っていたのかもしれない。周りに化け物のように強い騎士がいて、それを見て育っているわけだから、戦闘センスだけは物心ついた頃から磨かれていたんだろう。


 この国の血は元から歴戦の戦士で連なる。それに向いた気風なのだという。その中心となる王族なのだ。そこに血が滲む努力を交えれば騎士の中でも雑魚にあたる連中くらいには追いつきもする。何せ誰もが友好的に手取り足取り己の妙技を語り、それを全て聞き流さず頭に留めている。


 武器を取り上げる一方で、ミアに相手をせがまれ喜び断れず構う。城の上層部は無駄な事をしている。この姫が望めば大抵の男はその懇願に負ける。お姫様を小鳥のままにしておきたいのなら籠の中で閉じこめてしまえばいい。そうすれば誰も誘惑されず、国王陛下の意のままになるだろう。ゴセルバなど率先して技を授ける。戒律に厳しいダンドロでさえ苦笑して王より姫を優先する。どうしてあれだけ愛されている事に気づけないのか。寂しさを覚えるのだろうか。


 修練所の端で静かに剣を振るう俺と目を合わせ、軽蔑の眼差しを向けるのか。


 奴隷など意識せずとも良い。俺の噂も耳にしただろう。そこらにある寄る辺無い石かゴミのように目に映さねば良いのだ。その目で咎めるな。俺を見るな。噂も名からも耳を塞げ。


 ゴセルバはチラリと俺を見て諦めの目を向ける。駒として見切りをつけ始めている。自分で動きミアに働きかける。側について。


 ミアに目を向ける理由がまた1つ消える。


「もっと真剣に相手を」


「はあ!」


 乾いた音で剣が地面に叩き落とされた。


 目を丸くした少年騎士から興味を失わせて余所を向くミアの姿から、誰が寂しいと泣く少女を想像するだろう。剣から槍に武器を変えてそれを回転させ構える。3倍努力したのだろう。俺が、少年騎士が、享楽にふけっている間にも。ただ目指している。何かに向かって真っ直ぐに。そこまで突き動かす目的は知らない。


 だがゴセルバは俺に影響されたのだと言った。これは悪い事ではない。


 ミアにとっては。


 だが、俺にとっては悪い事らしかった。生きる意味全てを根底から覆し揺り動かされる。麗しき大輪の花によって、俺は枯らされ朽ちていく。元から決まっていた運命だったのかもしれない。残酷な双子の敷いた運命の天秤が傾いた。


 無へ。










 雑用の代わりに呼び出されたのは誰も見回り以外では訪れそうに無い城の外にある通路だ。城壁を越えた町までよく見える。


 直接俺に命じるいつもの上官、見覚えがあるような記憶に薄い中年、爺、騎士がいる。奴隷のエセ騎士ただ1人を囲むにはあまりにも空々しいメンバーだ。だが、命令はもっと馬鹿馬鹿しかった。


「ナルナ・コルコットを少年騎士より正規騎士へと特別に承認する許可がくだされた」


 少年騎士から正規の騎士へ昇進する。そうなるだけの特別な事をした覚えは無い。毎日やらされていた事といえば雑用と性奴隷扱いぐらいだろう。それも影で反撃すらしていた。表沙汰になれば処刑にされるくらいだ。それに昇進を告げるのに、この場所は場違い過ぎた。


 この後に続けられる言葉には内容はともかく半ば想像がついていた。


「そして、これより正式な任務も同時に与えられた。北部の国境にあたるサリの警備に向かってもらう」


「北部、国境?」


「国王陛下より直々のご命令となる。光栄であろう。少年騎士のままでは任務は与えられないから特別な処置だ。何を賞されたわけでもないのだから、思い上がらず、陛下の温情に感謝するといい」


 何故?


「この町を離れるわけにはいきません」


 ここから引き離される。


 異動?そんな馬鹿な話は無い。


 国境、つまり、この町から断絶される。


「奴隷如きに興味を示され、以前のホクオウ嬢の時よりも酷く影響されている。これ以上、美しき我が国の姫が下々の空気に触れられるようではな」


 こいつらはできるだけ辺境に俺を閉じこめておきたいというわけか。肉を切らせても骨であるミアを断たせないために。大事に目隠ししてやるのだ。


「聞くところによれば元は貴族の屋敷に押し入った強盗だと言うではないか。それを考慮すれば騎士という位を剥奪するに値する過去だ。この決定は実に特別な扱いだ」


「なら騎士の方を止める」


 戻ってこられるか怪しいものだ。俺は捜し人を求めることなど出来なくなるだろう。遠くに消えたオモチャのためにリリスが女神を捜し続けるとは思えない。


 どこかにいった俺は放置される。


 完全に目的から断たれる。


「騎士を止めればスラムに帰れるとでも思うたか。どころか盗賊として処刑する。それは心優しい姫様に傷を残すだろう、出来れば避けたいものだ。本来なら処分してしまいたいところだが」


「では、国境は遠いことだし今日は帰ることを許可しよう。すぐにでも出発できるよう準備するがいい。ディズ伯爵には了承を得ていることだしお前は何も考えなくていい。そう、余計なことは何もだ。異論はあるか。まあ、あったとしてもそれがまかり通るような事はない。奴隷は奴隷らしく人に従っていれば良い」


 どうすればいいかなど決まっている。正解が分かったところで実行する物わかりの良さがあるのなら、初めから性格が悪いことに気づいていたリリスに従ったりはしなかっただろう。縛り首でも火炙りにでも好きにすればいい。俺は死ぬことの何が恐ろしかったというんだ。女神を得ずにこのまま地獄の中で漂い続ける以上に苦しいことか!?


 どうでも良いはずがない。捨てきれるはずがない。俺にとっての全ては結局は女神にある。最後にすがりつき慈悲を乞い祈るのは誰だ。俺の女神だ!


 大事なお姫様が傷つくというなら傷つけてやろうじゃないか、俺の全てと共に。何が尊い。何処が優しい。腹が減って動けなくなるというのがどういう意味を持つか本当に知っているのか。噛みつかれ引き裂かれ首を絞められる苦痛を味わったことがあるのか。意味もなく石を投げつけられ死を前にしたことは。食うか食われるかの立場にたつ恐怖は。選んだわけでもない奴隷の身を蔑まれ、同じ仕事をしても叩きのめされる。俺にあれだけのことをしながら、貴族は俺が息をすることさえ許さない。その頂点に礎として立つのがお姫様なら、お前達の絶望のために滅茶苦茶になればいい。


 小さな物音と扉が開く音に誰もが振り返る。


 言葉が渦巻いて、頭から全てが消えて、ただ暴れて何もかも壊してやろうと。


 そう思っていた心が急速に冷えた。


「ナルナ、地方に行くの・・・?」


 赤い斧、多分倉庫にあった元は錆びていたものだ。綺麗に磨き抜かれ手入れし直されたものを持って、ミアが俺を見ていた。ドレスではなく、動きやすそうな服で。斧を持つ手とは逆の手には何故かヌイグルミが握られていた。ミアの部屋に異常に溢れているヌイグルミの1つだろう。いつも持ち歩いたりはしていなかったが、それは斧も同じだ。


 周りの連中が膝をつき礼をとるのが視界の端に見えた。俺はミアと合わせた目をはずすことなく身動きをしない。その視界を塞ぐように白髭が割り込みミアに頭をさげつつ近寄っていく。


「おお、ミア姫様。ご機嫌いかがですかな。またそのような物騒な物を。槍など下々の者に持たせておけばよいもの。その手をまた傷めておしまいになるつもりですか」


 ミアの手が、ヌイグルミの腕を巻き込みながら大きすぎる斧に両方添えられた。そのまま体の全てを使って、自分が振り回されるように斧を横に振り回す。白髭の手前を刃が一線する。とても鋭いとは言い難い乱暴な一撃だが、周りは十分に唖然とした。こんなにも強烈なインパクトを与えながらミアの表情は変わらず、俺からそらさない、目を。


 斧を取り上げろという言葉を遠回しに控えめに命じる声がして、初めてミアの顔が嫌悪に歪み、斧を引きずり後ずさる。近寄ろうとする全てを睨み付けて小さな体で大人よりもでかい斧を必死に構えている。


「なんで?」


 声は震えていた。


「城下からいなくなったら、もう会えないじゃないか。それも命令だからか?私なんかより余程大切だな。行くんだ?」


 行かない。


 ここで死ぬ。


 全て壊す。


 つもりだった・・・・・。


「ああ」


 ヌイグルミがミアの手から滑り落ちた。ミアの視線も。


 生きるのも、死ぬのも、地獄も、女神も、頭の中でグチャグチャに響いていた自分の喚きもブツリと音を立てて腐っていく。出した答えとは逆のことを口走っている。壊すつもりだった姫を、ミアを目の前にしたらこいつを傷つけるという選択がかき消えてしまった。


「アックスから手をお離し下さい!」


「武具は全て姫から隠せというお達しなのに、いつも何処から手に入れてこられるのやら」


「姫様に甘い少年騎士達には困りものだ」


 斧に添える手はすがりつくように力を一層込めたように見える。


「どうして私から奪おうと?何も出来ないお姫様に仕立てたいんだろう。ありのまま運命を受けいれる無抵抗でいる人形。こうやって力ずくで押さえて城に閉じこめて、誰かを追いかけることは許さない。見ていることしか出来ないんだ。また?」


「何をおっしゃられているのでしょうか、ミア姫様、気をお鎮めになってください。そろそろお茶の時間でしょう、さあ、そのような危険な物を持っていればまた陛下が心配されることでしょう」


「綺麗な人形が損なわれることがだろう!誰もが溜息をつく鑑賞用の姫として価値がなくなるのが!!だから平民の事に興味を示す私からカクウを奪って城の出入りを禁止したんだ!カクウが城下から悪い影響を持ってくるからと。その次はナルナを連れて行く。私がお姫様らしい友達を作らないから!お姫様らしく孤独で気丈に出来ないから!!悪い子だから!!」


 顔を真っ赤にして、癇癪を起こすミアは取り上げられようとしている斧を振り回して牽制する。その叫びは悲鳴になっていた。仕方ないという顔で騎士の1人が斧の射程圏内に入り腕に絡めてテラスから外に放り出す。斧が空中を舞った。周りの連中の緊張がようやく緩まった。


「奴隷などより良い相手を用意致しますから、このような者への興味は」


 だが得るための戦う武器を失ったミアは、その瞬間にテラスの手すりに腕をかけ身をのり出し、その身も空中に踊らせていた。斧しか見ていない一心不乱な顔で。斧に手を届かせたミアの髪が波打つ。高く町が向こうまで続く景色がよく見える。城の高い塀を越えた向こうが見える高さだ。人が潰れるのは容易い。


 落ちる。


 一斉にテラスに駆け寄る騎士や文官達の手は全て空を切り、俺はその間を押しのけて手すりを飛び越えた。


 風が荒れ狂う音を聞き、落ちながら俺は更に壁を地面に向かって蹴って駆ける。


 空中を浮く抵抗を突き破り、地面により近いミアの胴を捕らえた。


 このまま地面に激突すれば呆気なくミアはバラバラになるか、潰れる。つかまる所など知らない。平らな壁に向けてあいた片腕を振りかぶる。


「ふっ!!」


 壁に片腕を殴り込んで石を砕きめり込ませた。骨が砕ける感覚、音は壁の破壊音に紛れる。熱く冷たい腕を無理矢理壁に更につきいれ、地面近くまで抉り落ちていく。


 そして、落下はすぐに終わった。


 抱えたミアは低い位置から軽い音を立てて着地させて壁から腕を引き抜く。崩れた壁が上から順に塊となって頭上に降ってくるので自由になった手で全て取り落とさないよう粉々に吹き飛ばす。そのまま座り込んだミアを見下ろすと傷は見当たらない。


 腕がビリビリと砕け散ったように感じる。繋がってはいるが千切れそうにズタズタに骨が飛び出している。


「ど、して」


 こちらに震える腕が伸びて血に触れかける。手の届かない距離に避けると、血はミアの手元を穢さず落ちた。向けられた手の奥で大きな猫目を揺らして見つめてくる。指先が大きく震え、握りしめて胸元に引き戻された。手にはまだ白い包帯が綺麗に巻かれている。腐りきった手足しか持たないスラムの奴隷に腐臭が移ることにも気づかず、ヘドロの中に手をかき入れて屍に離れないでと叫ぶ至高の姫。


 この姫は俺のいる場所まで堕ちることが出来るか?そうなれば一緒にいられなくもないだろう。触れて染まり、知って穢れ、それでもなお共にありたいと思うか。ありえない。いつまでも美しく花に囲われる姿が容易に目に浮かぶ。そこには何1つ闇は・・・。


「強くなりたかった。強くなって、私が守りたいのに」


 闇が無い。


 涙を雨のように落として自分の弱さを嘆き泣く、その綺麗な手で触れられたく無い。知られたく無い。その光の中に闇を見たく無い。俺をおぞましいと口にする声を絶対に聞きたく無い。ありえてはならない。


 門に向かう。


「守れるから、行かないでって・・・」


 ボロボロの手は綺麗な包帯に包まれている。だが、その手の下は以前より酷い。断言出来る。その顔も体にも傷は増えている。


 ここを、去ろう。


 初めから女神なんて幻想だった・・・・・・それで・・・・・・良い。



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