ライフオーバー 12
赤いランドセルを背負った腰まで伸びた黒髪の少女は、周りにいる少女達に文字通り手を弾かれた。
『アカリちゃんがおかしいのよ』
無遠慮に打たれた手はじんわりと痛みを伝えて、無意識に逆の手で覆い庇った。教室でまだまばらにいるクラスメート達から冷たい目が向けられる。ここに味方がいないのは明白だった。
『ほんっと空気読めないよね』
『アカリちゃんって、立川のこと好きなんじゃなーい?』
『えー!気持ち悪ーい、趣味悪ーい』
キャーッと甲高い声をあげて少女達は教室から出て行った。アカリの隣に立った少年が髪に投げつけられたヒッツキ虫という植物の種を黙って教室の床に払い落としていく。ヒッツキ虫は服や髪などにつくとなかなか取れない小さい棘のついた種なので、1度大量につくと簡単にはとれない。
まだ教室に残っている他のクラスメートからクスクスという残酷な笑いがあがる。
ヒッツキ虫を払いながら少年は小さな声で呟いた。
『僕の事はいいから早く謝ってきなよ。一緒に悪口言ってれば仲間はずれにならずにすむから』
振り返ったアカリと目を合わさずに少年は黒いランドセルを背負うと、種を払うのを諦めて教室を出て行く。
『あーあ、振られた』
誰かの声がやけに大きくアカリには聞こえた。
目が覚めたアカリは小学生の頃を思い出していた。上半身を起こしてボンヤリと天井を斜めに見上げ、床に視線を落とすと携帯が目に入る。開くと<立川信路>からメールが来ていた。『体調はどうか?』『顔の腫れはどうか?』『気分はどうか?』
昔弾かれた手を持ち上げて見る。
あれから立川を庇った代償に厳しい仕打ちを耐えるはめになった。人から隠されない悪意をぶつけられるのは恐ろしかった。ただ、半分がマワラ族として育てられたアカリにとって、彼を孤立させる少女達を残酷に思ったら話しかけていたのだ。それが少女達の不興を買うなどという発想もなかった。
メールに目を戻して返信文を作る。
『コマキちゃん、愛してるよー』
送信ボタンを押して布団から抜け出る。あちらの世界がどうであれアツシは今眠るしかない。だがアカリは牢の外の人だ。
こちらとあちらの世界がなんらかの形である程度繋がっていると仮定する。物理科学の概念が無い世界だ。当然異能者はこちらの世界で知識の基盤を得たはずだ。ネジ1本を作るにも鍛冶師が刀を作る様な手作業が必要な世界でこのオーバーテクノロジーを実現できたのは、アカリにとっても驚愕に値する。機械の製作に苦労しているアツシとして正直に言ってしまえばどうやったのか教えて欲しい位だ。
キメラの技術は明らかにアカリの世界より高度な部分がある。あんなものを生み出したマッドサイエンティストなら、調べればこちらでも何かしら名を残しているかもしれない。とても酷い可能性として、こちらの世界で犯罪とされた人体実験を繰り返す事でこちらの研究を進めていた可能性だってある。
調べるなら生物学の人間に当たってみるのが手っ取り早い。中山に相談して生物学の教師に話を繋ぐか、以前知り合った生物学の江崎を探してみようか。できれば教師が良い。異能者は処刑されて久しいのだ。ちょっとした当事の噂や正規からはずれ埋もれた出来事を掘り出せれば、キメラに関するなんらかの情報をつかめるかもしれない。
服を脱いで、下着姿で立っているアカリを鏡で省みる。
「調べてどうする」
オトやキメラの慰めになるどころか、ジンのフォローにもならないかもしれない。ましてや、牢にいる仲間を集落に帰す助けになるのか。
「違うな」
謎を解きたい理由は自分が機械を作る免罪符を欲しているだけだ。このまま、むざむざ今までの努力を無かった事にしたくないだけ。あるいは好奇心を満たすだけの結果になる。それが今すべき事だろうか?
新しい服をクローゼットから取り出して袖を通す。鏡の前に出て、髪をとき、あまり飾り気のない頭にいつもの髪留めをつける。
今やるべきことは。
部屋の扉が勢いよく廊下側から開かれた。
「目が覚めたわね。アカリちゃん、ちょっと居間にいらっしゃい。パパにお仕事休んでもらいました」
「えっ・・・」
こちらの世界にも解決せねばならない問題があったらしい。
朝食をすませて仕事に向かおうとしていたスーツ姿の父が眉を寄せてソファに沈んでテーブルを指で叩いてイラついている。母に無理やり引きとめられたのは明白である。
「あの、私も学校」
「ママが電話しておいたわ。休ませますって」
「げ」
「じゃありません。貴方、昨日男の人に乱暴されたのよ!?嫁入り前の娘が、家に帰ってこない娘が病院から朝帰り。警察から嫁入り前の一人娘の顔に、娘の顔に傷をつけられたって連絡が入ったのよ。しかも相手がヤクザですって?昨日は怪我や事情聴取で細かい事は話せなかったにしても、今日はきちんとママに全部説明すべきでしょう!?」
頭を掻いて言葉を探す。説明と言われても警察に問われたこと以外に言うようなものはない。金森妹が乱暴されそうだと間に入った以上のものは。
「女の子が乱暴されそうになってるのをたまたま見つけて、バイト先の知り合いの妹だったから逃がして、逃げ切れなくて殴られて、それで友達が駆けつけて助けてくれたんだよ。別に変なことして狙われたとかじゃないから、もう心配ないと思うんだけど」
「それでまた狙われたらどうするの?いっつも真夜中までバイトして1人で帰ってきて、女はね、ちゃんと自分で安全策を練らないと何があるか分からないのよ。ママは前からこんなに遅くなるバイトは辞めなさいって言ってたでしょう」
「夜に起きた事件じゃないんだからバイトは関係ないって。心配かけたのはゴメンなさい。でも、物凄く遅い時は友達に泊めてもらってるんだし」
その友達が戸籍上男だという事は完全に伏せているが。
「普段から十分遅いでしょう!パパ!パパもこの子に言ってちょうだい。私の言うことなんていっつも聞き流すんだから!」
「別にママの言葉を無視しようって決めてるわけでは」
「あぁぁぁ」
顔をしかめた父は座っていたソファから立ち上がってカバンを手に取る。
「もう犯人は捕まったんだから煩く言うことはないだろう。とうのアカリが怯えてないなら周りがあれこれ言って閉じ込めても何にもならん。もういいだろう。仕事先に迷惑をかけてしまう」
「ちょっと、貴方、今日は会社は休んでちょうだいって」
「金切り声は止めろ。ご近所に何事かと思われる」
玄関に向かって行く父に母が血管を浮かべて追いかけていく。
「大事な可愛い1人娘の顔が腫れあがっているのが見えないの!?この唐変木!!そんな育児に無関心だから、こんなズレた育ち方を」
アカリは居間のテーブルに置かれた朝食に手を伸ばしてパンを齧ると腫れた口が引きつって痛い。
金森の体調は回復しただろうか。借金取りの事や金森の妹の事で不安もある。学校に休むと連絡をしたのなら、見舞いもかねて様子を見に行こうか。その後にコマキに会いに行く。異世界の真偽を問わない唯一の友人は今後どうすべきか冷静に考えてくれるだろう。
アツシはオトが言うほど安穏としているわけでもない。いざとなれば牢は破るつもりでいる。キメラ達が平和的に開放するつもりでいるなら無益な血を流さないに越した事は無いと、マワラ族の流儀に沿っているだけだ。それでも同胞を外界に連れ出している責任上、アツシが無策でいるわけにもいかない。
あの世界の己が役割は守護者なのだから。
玄関先の言い合いが終わる前にペロリとパンを食べて牛乳を一気に飲み干す。さらっと身支度を整えて母と廊下で颯爽とすれ違った。
バックが肩で揺れる。
「ちょっと、アカリ!」
「就職活動の大事な時期に家に閉じこもれないでしょ?バイト先に迷惑かけるから、ごめんなさい。今度から顔は気をつけるからー」
「気をつけるべきものが違うでしょう!!なんでそういうところばっかりパパに似る」
扉を閉じると母の声が切り取られた。その声が再び聞こえる前にと逃げてしまわねば。
バイクがピンクボンバーにあるのを思い出してガッカリしながら歩く。部屋に散らばった硬貨やポケットに入ったままのお札をかき集めて買った軽食を手に思い出しながら金森のアパートに向かう。自転車を取りに行くために慎重に覚えた道だが、微妙に迷いながらになってしまう。
アカリはあまり出歩かない。コマキがいれば何も考えずに付いて行くし、遠出には母が車を出す。決まったルートを往復するだけ。あまつさえ半身のアツシは草原の出身だ。道ではなく遠目に見える集落をアバウトに目指せば到着できてしまう。そこまで考えて、ならばノーディアやケオンも同じ様に迷子になっていないのは何故なのかと疑問が浮かぶ。
そんな事を考えていると段々うら寂しい通りで行き止まりになってしまった。
携帯の履歴を開けて<立川信路>を開く。だが携帯はそのままポケットにしまわれた。この現状をコマキに知られるのもそれはそれで物悲しい。時間はあるのだ。何も人に頼らずとも、と。
しらみ潰しに全ての通りを歩く不審者となり果てている道中、金融会社らしき看板を掲げた建物の前を通る。なんとなく見上げていると視界の端に赤いランドセルが見えた気がして前を向けば髪を二つに束ねた小学生が走って行く後姿だ。
「金融会社から小学生?」
その組み合わせに金森の妹を思い出す。だが、追う、のもおかしな話だ。ビルを見上げてアカリはなんとなく赤いランドセルが向かった方向を真っ直ぐに歩いた。追いつけはしないだろう。人違いかもしれない。大した根拠があるわけでもない。
だが辿り着いたのは狂気的な笑みを浮かべて姉のアパートを見上げる金森の妹の横顔だった。学校への登校時間はとうに過ぎただろう。昼にも近い。
2階から悲鳴が聞こえた。
アカリは金森の妹の前を走り抜けて階段を駆け上がる。拾えた言葉が物騒で「舐めたマネを」と「落とし前」が聞こえた。玄関先で細い腕が見える。
「いやあ!!」
アカリは金森の顔を叩く大柄な男のわき腹に体当たりで肘を打ち込んで扉に叩きつける。
「ぐはっ!!」
「ちょっとゴメンねっ」
もう1人奥にいた男が「なんだ、このアマ!?」と金森を部屋の奥に突き飛ばして、大きな手がアカリの腕を捕まえる。アカリはポケットの携帯を取り出したが、その手を叩き落されて携帯は何処かに跳んで行ってしまった。
「正義の味方か何か知らねえが良い度胸してんじゃねえか。金森の知り合いか?」
「悲鳴が聞こえたもんで暴漢かと思ったんだ。違うなら金森さんを乱暴につかんでる手を離してくれ」
「随分生意気な姉ちゃんだ。俺達がどういう相手か分かってないらしい」
持っているバックを振り回して男をかわすが、「おっと」と最初に突き飛ばした男が玄関を塞いでバックを取り上げられ、首を腕で締め上げられる。大柄な男だ。アカリの足が宙に浮く。
「ぶっ殺すぞ」
「ううっ」
顔を真っ赤にして怒っている男に、アカリは無理な体勢から片足を捻り上げて蹴り飛ばした。「ぐえっ!?」と再び呻いた男の腕を無理やり振り払うと、鷲づかみにされた服のボタンが派手に破け散る。アカリはそのまま床に転んだがバックへ一直線に手を伸ばしバックを引き寄せた。
「お前!!」
恐ろしい形相で向かってくる残りの男に、アカリは手探りに見つけた物を噴射した。
「ぎゃあああああ!!」
続けざまに体勢を整えようとした男にも再び催涙ガスを噴射する。そして壁際でくずおれていた金森の手を掴んで玄関先に逃げる。扉が開いて金森を外に押し出した。そのアカリの背中が掴まれて引き戻された。再び服が破ける。
「金森さん、逃げ・・・・・・」
壁に叩きつけられる反動で軽い体は跳ねた。視界の端で怒鳴られながら振りかぶられた拳を見て、顔を守らなければと腕で頭を覆う。
肉を打つ音で地面に叩きつけられたのは目の前の男だ。打たれるはずだったアカリは、何が起こったのか周囲に目をザッと向けた。
「有川君?」
拳を振りかぶった姿で立っている知り合いの姿に唖然と呼びかけた。玄関から引っこ抜かれて廊下に放たれた背後を追ってきた男が、壁に潜んでいたバルリングによって横腹から蹴倒される。
「おーい、まずいんじゃないのか?」
今しがた蹴りをくらわしたバルリングが緊張感のない疑問を投げかける。呻きながら立ち上がれない男共を見下ろした有川は自分の拳を手のひらに打ちながら唾を吐く。
「何が不味いんだ、玉ついてんのかバルリング。このまま殺して正当防衛だろうが」
「過剰防衛で貴様だけ捕まれ」
金森が廊下で焦点の合わない目で有川を見上げる。
「助けて、くれたの?」
有川は金森を見下ろし、そのまま隣で座り込んでいるアカリの前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ー?クロガネちゃん。血相変えてボロアパートに駆け上がっていくの見えたから何事かと思ったわ。あーあー、可愛いお顔が台無しじゃん。他人のトラブルでなーんでここまでファイトしちゃうかねえ」
「面目次第も無いけど、それより金森さんが。女性の顔を叩くなんてママが聞いたら逆鱗物だ。大丈夫?腫れる前に早く冷やさないと。いやでも警察に連絡するのが先なのか」
バルリングがアパートの下を覗く。
「下に江崎がいる。すでに電話しているから待てばいいだろう」
「立ってるー?なんなら俺が横抱きで連れて行きましょうか、お姫様。つかクロガネちゃん眼鏡割れてんだけど」
「なんで」
金森が焦点の合わない目で掠れた声を漏らす。アカリは不安になり、構ってくる有川を押しのけて金森の側に身を乗り出した。
「どうしたの、金森さん?ごめん、聞こえない。もしかして気分が」
各々が好き勝手に喋る状態で、アカリは金森の殴られた頭に手をやろうとした。それを金森が激しく睨みつけて叩き落す。廊下の床にまともに手がぶつかって痛みが走った。だが、それ以上に驚いてアカリは固まる。
「良い子よね。私と違って汚れてないし、我が身をかえりみずに助けにきてくれたんだ?」
金森は歯をかみ締めて怒りに震えてアカリを見ていた。
「ぶってんじゃないわよ、この偽善者!!冗談じゃないわ。何よ、こんなオカマバーで給仕してるだけの変人女、ただの地味眼鏡じゃない。辛い目にあった事も無いから片手間に施しなんて思いつくのよ。私が汚れてるのは私のせいじゃない。親の借金で生きていくため仕方無かったんだもの。誰も守ってくれなかったんだもの!!」
「金、森さん?」
涙を流しながら金森は顔を覆う。
「体を売ったのが何よ。心まで汚れたわけじゃない。だから救われてもいいはずよ。なのに助けが来たのはクロガネさんだった。頑張ってる私には目も向けてくれないの?私の方が助けを求めてるのにどうして?王子様を求めて何が悪いの?処女だからってクロガネさんが純真とは限らないじゃない。なんで私を見てくれないの。私の方がカナの事がずっと好きなのに!!」
髪を振り乱した金森が見上げたのは有川だった。不愉快そうに眉を寄せた有川は鼻で笑った。
「ちっ、勘違い馬鹿女がついにバラしやがったな。鏡でその醜い形相見てから言えよ。お前が処女だとしてもお断りなんだよ、中古のヒステリー女。借金だけでもウザいのに、王子様願望で脳みそわいてる奴を誰が飼おうって気になるよ」
初対面のはずの有川が金森に返答する。アカリはもう何がなんだか分からずに口を開けていた。
「カナなんて変態じゃない!クロガネさんをからかうために面白半分で水商売なんて嘘ばっかり!本当は私を馬鹿にしたかっただけなんでしょう!?憎い、憎い、まともに学校も行けずに身売りさせられた私より、なんの苦労もしていない女が幸せを手に入れるなんて許せない。馬鹿にしてえええ!!」
突然金森の矛先がアカリに戻って、呆然としていたせいで不意をつかれる。突き飛ばされて廊下の壁にぶち当たる。同じ様な場所にばかりダメージを受け、<男>の意地で声は飲み込んだがさすがに顔をしかめた。
「お前」
有川が手を振り上げたのを見てアカリは叫ぶ。
「駄目だ、有川君!怪我してる女に手を上げるなんて!!」
動きを止めた有川が溜息をついてアカリを見下ろす。硬直した金森と、黙って気絶した借金取りを見張っているバルリング。
アカリは突き飛ばされた胸に軽く拳を添える。
『クロガネさんだけ善い子ぶっちゃって、超不愉快。そんな風だから友達が』
「傷つけてゴメン。私、友達コマキちゃんくらいしかいたことなかったから、不甲斐ないことに君の気持ちを汲んであげられない。でも、偽善でも、金森さんが酷いめにあっていたら見ないフリだけは出来ない」
遠くでパトカーのサイレンが聞こえてくる。
「嫌いでも、夜遅いからって泊めてくれた。風邪で辛かっただろうに心配してくれたんだよ、ね?醜いなんて見当違いで、言いたいのは、だから、コマキちゃんが言ったわけさ。酷い目にあってる人がいるなら、優しさでバランスを取ってあげればいいんだって。そういうの凄くしっくりきてしまって、私はそういうただの馬鹿なんだよ。馬鹿だから、仕方無いって」
借金取りの男達がサイレンの音に反応して呻く。
「思ってくれないかな?」
金森が無言で顔を伏せる。アカリは自嘲した。とりあえず、興奮を解くことはできたのだろう。人間関係の機微はとにかく苦手で逃げ出したくなる。
「はあ、ほんっとクロガネちゃんはなんの特にもならないのによくやるねえ。昨日だってそれで病院送りにされてんのにさ」
有川の台詞にバルリングが眉を上げる。
「どうゆうことだ?そもそもこれはどういうトラブルだったんだFraulein」
アカリは苦笑いで有川を見上げる。
「カナちゃん?」
真顔でアカリを見下ろした有川は腕を組んで、くるりと首を傾けて微笑んだ。
「なーに?アカリちゃん」
「・・・全然気づかなかったな。有川君が女装っていう発想なかった」
「別人のように振舞うなんて案外簡単なもんだぜ?アカリちゃんがオカマバーでウェイターなんて面白いことしてるから、ゲームしてたんだよ。コマキみたいにマジカマじゃねえから」
昨日、ここを通りかかったのはピンクボンバーのカナ。金森は有川を見てカナと呼んだ。コマキは源氏名だが、本名で店に出る場合もなきにしもあらずだ。カナは金森の幼馴染だと言った。
コマキに『髪型を変えても気づかない鈍感。女としてありえない』と罵られるわけだが、さすがにこれは気づかなかった己に呆れてしまう。バイトと学校を合わせれば、コマキと同じ位の頻度で顔を合わせていた計算になる。化粧でまったく別の顔になっていたとはいえ、そう、アカリの名を呼ぶ響きや声は同じではないか。
「部屋に連れ込んでご開帳でバラすつもりだったってのに、金森が近くで働いてたのは大誤算だ。つまんねえタイミングでバレしやがって」
有川がアカリの肩に手をかけて、素肌を指でなぞる。破れた服が辛うじて引っかかっていた肩から落ちそうになって、「う、あ、お」とアカリは慌てて前を押さえる。
「俺が腹黒いから開き直った女はつまんねえ。危ないとこフラフラしてる小動物のが断然」
鎖骨からスルーッと指を滑らせて胸元近くに避けている布をつまみつつ、有川はアカリに段々と距離をよせていく。
「有川君?あの、えーっと、手がちょっと」
顔が何故かとても近い。笑顔ではだけた肩側の耳に口元を寄せ、有川は耳に息を吹きかける。
「助けたお礼ナニして貰おっか、アカリちゃ」
言い切る前に有川が「んっ!?」と横から踏み潰されて床に倒れ、その有川の腕に巻き込まれて別の方向にアカリも転げる。バルリングが冷たい目で有川を踏みつけながら「おら、警察きたぞ。一緒に捕まるか?このゲス」と言う。
そのバルリングの足をつかんだ有川は顔を引きつらせて持ち上げようとするが、バルリングは無表情でグリグリと踏みつけた。
階段を駆け上がってくる警察官。新手の男の登場に、バルリングは素早く上の服を脱いでアカリに投げて寄越した。ありがたく服をかぶっている間に速やかに男達は逮捕されていく。金森の悲鳴では現れなかった野次馬達も何事かと集まって高みの見物だ。
とはいえ、アカリ達もこのまま解散というわけにはいかない。江崎が階段を上がってきて「タクシー呼んだから」と警察署に向かう準備を整える。
「と、不味い、携帯がどこかに吹っ飛ばされたんだった。連絡がつかないとママがもう一台パトカー呼びかねないんだ」
昨日の今日なので。
なんせ事情聴取がどれくらいかかるものなのか分からないので、遅くなる事がバレないよう友人の家に泊まるとでも誤魔化す必要がある。連日でトラブルに首を突っ込んだのが伝わればアカリの未来は監禁一択になってしまう。
「ということは、これかい?クロガネさん」
「おお、ありがとう、江崎君」
携帯を開いて、「まずはアリバイ工作」とコマキに電話をかける。それを案外早く取るコマキは、第一声から怒っていた。
「何よ」
「まだ何も言ってないのに怒っていらっしゃる・・・」
「怒ってらっしゃるわよ。昨日のことはしばらく根に持つというか、お陰様で寿命縮められたからね」
コマキが沈黙をはさんで勢い込んで聞き返した。
「待ちなさい、まだって何!?いいえ、聞きたくないわ。さてはあんた学校じゃないわね?何処にいるの!!」
「実はママが学校に欠席を電話したところから朝にお見舞いを思いつきまして、金森さんのアパートにその」
ごにょごにょと言葉尻が消えていくアカリに容赦無いコマキが追撃する。
「襲われた現場近くに単身で乗り込む馬鹿がいる!?」
「えぇ・・・、だって女の子が困ってたら」
「ええ、じゃない!」
声だけ男に戻ってる。これは相当怒らせてしまったようだ。気持ちは真摯にアカリはなんとなく正座する。
「コマキちゃん、お願いがあるの」
「迎えに行けばいいの?金森さんのアパートって何処?」
「私は大丈夫。まあ、コマキちゃんの予想通り実は昨日のトラブルの続きでちょっと遣り合っちゃって、それを大学の知り合いが助けてくれたんだけど、後は警察署に行ったら一段落しそうでね。今回はそこまで迷惑かけないよ。ただ遅くなるかもしれないから今日は泊めて欲しいなってだけの」
大きく息を吸っている気配を感じた。携帯を耳から離す。
「あんたも女でしょうが!どれだけ自覚がなくても胸と股間に手を当ててよく思い出して、馬鹿なこと言ってないで迎えに行くから居場所を教えなさい!!」
予測していても慌てたアカリは携帯を取り落とし、奇跡的に胸元に引っかかった所で両手でキャッチする。安堵して、それからその握り締めた手が電源ボタンを押さえて通話が切れた事に血の気が引いた。
「うわぁ、ごめん、わざとでは・・・」
掛け直そうと画面を覗き込んだ携帯が手から滑り落ちる。アカリが徐々に横に倒れて身を丸くする。金森がけげんな顔で「クロガネさん?」と呼びかけた。目を閉じたまま、アカリは小さな声でなんとか返事を返す。
「ごめん、ちょっとだけ気分が悪いみたい」
視界が歪んでいた。
土足でバルリングが玄関から踏み出して傍らに膝をつく。
「Fraulein、まさか頭を殴られたかぶつけたりしたのか?まずいな。警察より病院を先に」
バルリングがアカリの近くで髪に指をさしこんで頭を探るが、「違うの。実は昨日まったく寝てなくて、それで疲れちゃったから、眠くて、我慢でき」段々と返事をする気力が根こそぎ奪われて、世界が反転する感覚に全神経が支配される。
「病院は、やめ」
アカリの携帯が小さく点滅しながら着信音を響かせる。手を伸ばしても辿り着けなくて、言えたのはそこまでだ。
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