ライフオーバー 16
マワラの集落にいた記憶。
家畜を襲うハイエナの前に飛び出すと、牙を剥いた口がアツシの首を狙った。後ろに跳んで横面を蹴ると鳴いて草原に転げて体勢を整える。他のハイエナが隙アリと見て食いつこうとする尻尾を捕まえると「ぎゃん!」と驚いて噛み付きにきた。
「早くお逃げ。この子達はやれないんだ」
草を食む家畜達は根城の集落に自分で逃げていく。ジリジリと近づこうとする飢えた肉食獣を家畜の群れの最後尾でアツシが牽制する。
遠くから駆けて来た獣を見て家畜を集落に追い立てた。障害物の無い高原はせいぜい丘の高低があるだけで何km先まで見渡せる。厳しい冬に備えて獣も必死に獲物を探している。だが、アツシは譲ってやるわけにはいかない。この家畜達は部族の命を左右する財産だ。
諦めて後退し、ハイエナが逃げるところまで見送って息を吐く。
冬の良いところは部族間抗争が休戦するところだ。西はまだ静かな方だが、いつ他部族の侵略に合うかは分からない。だが冬も好きになれない。冬は人を殺す。だからユクレイユ地帯では遊牧民がいまだ多く存在する。
畑で取れる物には限りがある。今の時期にできる限り備えるため秋には狩り手達が走り回ってくれるが、それもやはり足りないのだ。餓死と戦、これがユクレイユの最たる死神になる。
畑を耕し土着を選んだマワラ族は凍死に目を瞑り何十年もそこにいる。クォーレル国のエンドという小さく侘びしい町から近いからだ。草原の外にいる商人と取り引きする事にあまり抵抗感を持たないマワラ族は
、訪れる商人に時々布を売った。質の良いマワラの生地は大金になってくれるので、それで食料が買えてしまうのだ。それも無限ではないが、わずかに気温がマシな程度の南に遊牧するよりは断然良い。
「あっちならコンビニでいくらでも買えるのに」
食料が保存出来ないというのは、想像以上に生活を困窮させる。手に入った食材は基本的に近い内に食べねばすぐに腐る。凍死にしてもそうだ。マワラ族の織る生地は暖かく、木組みと家畜の毛で出来たフェルトが存外優秀な天幕で生活しているにも関わらずだ。
暖炉を焚けば吹きすさぶ雪の中でもサウナになる。だが、草原には資源が豊富ではなかった。高原には障害物がない。つまり、木が自然に育ちにくいのだ。燃料は貴重だ。
守護者であるはずのアツシに出来ることがあるとすれば、せいぜい冬を越せそうにない家畜を選んで、来年に響かせる事無く肉にしていくぐらいだ。もしくは、草を多く含んだ家畜の糞を集めて燃料として保存しておく事か。
今年は、誰が冬を越えずに逝くだろうか。
夕日の中で遠くに浮かぶ集落へ目を向ける。あそこが守るべきマワラ族の住む集落だ。
家畜は集落にちゃんと帰っていた。帰省本能がなければ放牧というものは成り立たない。たまに迷子になる獣も、仲間の群れと一目散に走れば道をそれたりはしないものだ。
「もうすぐ火祭りじゃなぁ」
集落の囲いに入ってすぐのベンチに長い杖を持った老女が座っていた。周りの地面でじゃれあっていた子供達が一斉に老女を嬉しそうに見上げて「いつやるの!?明日?明日やる?」と騒ぎ始めた。老女はそれを愛おしげに見て、アツシの方に顔を向けた。
「アツシはいつも遠くで隠れおるが、今年ぐらいは舞い手にでも志願しておいで。ヘムナは大層上手じゃった。習って見せておくれよ」
「俺はいいよ。ここで見てる方が楽しいんだ。母に習うのは戦技だけで手一杯だし」
頬の皮を揺らしながら穏やかに老女は笑った。
「火を囲んで酒を飲みながら女の腰に手でも回す。祭りに酔うのも楽しいもんじゃぞ?舞いとは言い難い躍り狂った酔っ払いを見て楽しむのは、老いたワシらの楽しみ方じゃて」
アツシは小さく笑って老女へ近づいて片膝をついた。
「20になったら酒ぐらい飲もうと思う。それよりゲテルテ、この辺は冷たい風が当たる。もう少し奥の方にいた方がいい。みんなもおいで」
子供達に呼びかけて、アツシは老女を助け起こして集落の外周から天幕に囲まれた奥に連れて行く。開けた中心部には人が大勢集まっていた。血の匂いがする。狩り手の男衆だ。獲った獣を仲間に切り分けているらしい。狩りの様子を自慢げに語って女を口説く狩り手、備蓄のためにどうしていくか話し合っている族長達。
「これはこれは、随分大量だね。これは思ったより火祭りも近いよ」
老女が嬉しそうにしているのを近くのベンチに座らせた。アツシは集まって行く同胞を外側からジッと見てから、老女を振り返った。
「用事があるから行くよ」
「若者に混じらんでワシらみたいなのばかりと喋っとると早く老けるぞ、アツシ」
「ゲテルテを見ていたら老ける事が悪い事だとは思えないな。そんな風になれるとは限らないけど」
「お前は、そういう無駄口を私に使わんと若い女に言うてみい」
アツシは苦笑いを残し、その場を離れる。
老若男女、段々人が集落の中心に向かってアツシとすれ違う。集落の外側にある自宅天幕まで近づいて、突然勢い良く駆けてくる者に気づいた。外部から囲い柵を軽々と跳び越えた男は一直線にアツシの前に拳を振りぬいた。
重い音を立ててアツシは手の平で受け止めた。襲撃者は構わず、怒り心頭でのたまった。
「よくも昼は撒いてくれたな!!人がはるばる手合せを申し込みに来ているというのに、アツシ、お前ときたら毎度毎度」
「エルドラ・・・・・・君、もう夕方だよ?まだいたの?」
トワトワ族の青年が地団駄を踏んで、手を振るわせて迫る。
「おめおめと帰れると!?冬になってからだとお前が嫌な顔をするからと、今の季節の内にと仕事をまとめて終わらせて来ているんだぞ!負けたままで次の春まで集落でくだを巻くなどトワトワ族最強の誇りが耐えられんと毎年言ってるだろう!?」
つまり毎年、次の春まで負け越しているわけだ。
アツシは母の命令によって他部族の戦士に勝負を持ちかけて回っている。ユクレイユ地帯の戦士はプライドが高い。それを利用してやろうという母ヘムナは、マワラ族としてもユクレイユの他部族からしても随分としたたかで冷静な策士であった。部族の中で戦の中心に立つのは戦士。彼らの戦意が侵略と略奪、部族間の勝負へ向かない手段をよく見抜いていた。
齢14歳の少年が力自慢の戦士を地に沈めていく。これはかなりの屈辱を与えられる。汚名を雪ぐ方法など1つしかない。部族間抗争でマワラ族を滅ぼせば不可能になる方法だ。その少年、アツシに個人的に勝つ事。
同胞を守るため己ができる贖罪を探すために守護者として鍛える事に没頭するアツシは、いかなる部族戦士にも勝ちを譲らなかった。マワラ族のアツシの武勇は他部族に広く名を響かせた。それは同胞を守る盾の役割を果たす。全てに通用する手段ではなかったが、それでも母の狙い通りマワラ族と他部族との緊張関係は随分と緩やかになったものだ。
こうやって再戦目的で狙われ続けるアツシだけは平和と程遠くとも。
「・・・分かった。ちょっと待ってて。母に声をかけてくるから」
「必要ない。さっき外で会って挨拶はしておいた」
「・・・・・・・」
このトワトワ族のエルドラは他の戦士とは桁違いの頻度で勝負を仕掛けてくる。母を除けば下手をすれば同胞より会話量が多いぐらいだ。もう訪ねてきた理由を母が問わなくなって久しい。
集落の囲いを越えて、同胞が何事かと思わない距離まで歩く。だいぶ離れたかな、という位置にきて、エルドラは突然振り返って足を蹴り上げた。
草原に寝転がって肘をつきながら、ムスッと不機嫌にしているエルドラの額は見事に青く腫れていた。目の前にしゃがんだアツシは額にやんわり人差し指を当てる。
「一撃目に入ったやつが痛そう。奇襲なんてするから驚いて手加減出来なかったんだけど、大丈夫?」
「手加減だと?忌々しい。最初から全力の手合せだろうが」
「前に強く打ち込んじゃった腹もどうせ痛いんでしょ?無理して来るから実力が出せないんだよ」
「煩い。しばらくトワトワは冬備えで忙しい。今の内しかないんだ」
「でも今日来てくれて良かったかな。俺もしばらく用事があって」
「だったらなんで逃げた!?」
目を剥いて片膝をついて起き上がるエルドラに、両手でアツシが手の平を向けて身を引いて声を出してケタケタ笑う。
エルドラは服をはたいて草を落としながら立ち上がり、腰に手を当てて顎をあげた。
「今年のマワラ族の火祭りはいつ頃になる」
アツシは首を傾げて肩を上げた。
「さあ?少しいつもより早いかもしれないみたいだけど」
「お前、まだ同胞に馴染めんのか。会話にまともに加わっていれば黙ってても火祭りの情報なんて耳に入ってくるもんだろうに、それをお前、ご老体方みたいな答え方しやがって」
言葉に詰まる。
アツシの母とアカリの父・母、それにたった一人の友人を除いて最も関わりが多いトワトワ族の青年だ。これだけ付き合いが多いと何かと喋らされる機会も多かったりするわけで。
「半分はガザル族の血を引くと言って別段誰ぞに拒絶されてるわけでもないんだろう。そもそもマワラ族が同胞を疎むわけがないというのに、何を怯むというのか理解できんな。そんなにマワラの集落の居心地が悪いのなら他部族に婿入りしてしまえ。うちの族長がレクレアールはどうかと打診していた」
「トワトワ族自慢の美人を勧めてくれて嬉しいけど、彼女に婿入りしたら男衆に殺されそうだ」
「・・・ふん。今年の火祭りはお前の母に来てみてはどうかと誘われている」
瞬きをする。
「母が?」
「いつ頃か分かれば一晩くらい時間を作る。時期は開くがまた聞きに来る。夜が近い、今日はもう帰る」
指笛でエルドラが馬を呼んだ。少し遠くで草を食んでいた馬がエルドラの元に駆け参じ、彼はその馬に颯爽とまたがった。アツシはエルドラを下から見上げて微笑む。
「そう、マワラ族の火祭りは比較的派手な方らしいから楽しんで」
「お前な、どうして俺がマワラの火祭りに参加すると・・・」
顔を歪めてエルドラは舌打ちする。
「いや、いい。いいか?俺が勝つまで絶対に他の誰にも負けるんじゃないぞ。祭りに浮かれて怪我したり、獣に不覚をとられたり、病を得たり」
「エルドラ」
空を指差すと、また舌打ちした。
「アツシ、次に会う時だけは手合せしろとは言わない。じゃあな」
「そう、気をつけて」
馬を駆って行くエルドラの後姿を遠くの方まで見送る。いつもより長くその姿を見ていた。かなりの距離が開いてからアツシはようやく踵を返し、自宅天幕に帰った。
「ただいま」
「おかえり。エルドラには会えたようね。本当に、あの子も熱心ねえ」
母が狩り手から分配された物である肉を切り分けながら息子を迎えた。四角い天幕の中心には暖炉があり、天板の丸い蓋が開いて鍋が置かれている。その中には肉の塊が煮られている。母は切り分けた肉は丁寧に布で包まれて壺に保存されていく。
「案外目的は母なのかもよ。火祭りに誘ったんだって?もし良い仲になってるんなら反対なんてしないから教えてね」
「あんたは母に息子と同じ年の子供をどうしろと?」
母が半眼でアツシを見返す。
「母はむしろそれ以上に不毛な噂を心配してるんだけど、あんたに習って反対はしないわ。でも・・・・・・孫は抱きたかった」
何か悟って遠い目をしている母に、女は相変わらずよく分からんな、と自分のベッドに座ろうとした時、天幕の外から女の声がかかる。
「ヘムナ、いるー?」
「いるわよ、イレリア」
答えた母はアツシに目を向けて顎を向けた。アツシは扉に手をかけて開く。すると天幕の前に立っていた若い娘が胸の前に布を抱きしめてアツシを見上げた。
「アツシ、帰ってたのね。ちょっと前にまたトワトワ族が来てたみたいだけど」
「もう帰ったよ。どうぞ」
「入るわね。ヘムナ、邪魔じゃないかしら?」
母は最期の肉を掲げてウインクをして見せる。
「構わないわよ。その抱いてるのは服かしら」
イレリアは畳んでいた布を広げてアツシの体に押し付ける。
「そうなの!あの、祭りの前にアツシに新しい服はどうかと思って!ノーディアにと思って織ったんだけど、ちょっとあの子にはサイズが大きくて、これなら丁度アツシが合うんじゃないかと思うのよ」
彼女の4つ下の弟ノーディアは確かにマワラの男達の中では少々小柄だ。あまり新しい服を頼みに来ないアツシにこの2つ年上の織り女はよく服を持ってきた。
「ありがとう。丁度服が擦り切れてきた所だったから」
「言ってくれたら新しい服くらい私が繕うわ!」
「着まわし出来る数はあるから大丈夫」
「そ、そう。・・・・・・あのね、その、火祭り」
イレリアは何か言いかけたが、口の中でモゴモゴと言葉を飲み込んでうつむいた。
「どうかした?何か困りごとがあるなら引き受けるけど」
声が聞き取れずにアツシは身を折ってイレリアの顔を覗き込む。するとイレリアは両手を交差させて振り仰いだ。
「いやいやいやいや、なななな何でもないのよ!そーだ!!あ、ノーディアなんだけど、夕方に見かけたっきり何処にいるのか分からないのよ。2人共見かけなかった?」
ニヤニヤしていた母が両肩をあげて無言で答え、イレリアに再び視線を戻されたアツシは頬を指で掻く。
「さっきまで集落の外だったんだ。役に立てなくて」
「ああいいの。あの子、最近沈みがちだから気になっちゃって」
「何かあったの?」
「元々浮き沈みは激しい子だからね。見かけたら声でもかけてあげて。じゃあ、私も家で母を手伝いに帰らないと」
母が口を開く。
「うちと違って家族が多いと肉を分けるのも大変だろうからね。孫でもできれば少しはうちも忙しくなるだろうけど、いつ頃の話になるのかしら?」
「う、その、じゃあ」
外に飛び出してイレリアが駆け足で帰っていく。アツシは緊張した肩から力を抜いて深く息を吐き出した。母は壺に蓋をする。
「イレリアも熱心よね」
「仕事に?反論は無いけどマワラ族は大抵仕事熱心だろ」
「・・・あんたのその朴念仁は一体誰に似たのかしら。ほら、食事できるわよ」
「ちょっとお腹すいてないんだ。後で食べれるようにしておいてもらっていい?」
イレリアに貰った服を眺めながらアツシは何かを思案する。
街灯が無い夜というのは本当に闇と呼ぶのが相応しい。草原の中でこうして夜を体感すると、月や星というものは思ったよりも物の形を教えてくれないのだと思い出させてくれる。
暖炉から拝借した火が灯る木の枝を口に咥え、天幕の外に隠し置いた荷物を担いだ。小さな炎でボンヤリと先を照らしながら進み、家畜を驚かせないように囲いの柵へ足をかけて静かに乗り越える。静まりかえった集落で誰も目を覚ました様子は無さそうだ。
「誰だ?・・・・・・アツシ?」
背後から声をかけられてビクリと体を揺らす。振り返ると柵の外側には人影が座り込んでもたれていた。宴会も祭りも無い日を選んだというのに、集落の囲いを乗り越えた所で人に見つかるとは運が悪い。
しかも、聞こえたのは涙声で・・・アツシは足を止めた。
「どうしたの、ノーディア」
片膝をついて火をかざせば、泣いていたのはイレリアの弟だった。怪我をしている様子は無いが、集落の外にいれば夜行性の獣に目をつけられかねない。
「そっちこそなんだ、その荷物。こんな時間に何かするのか」
ノーディアが顔を拭うより早くアツシは服の袖を伸ばして両頬を拭う。イレリアが沈みがちだとは言っていたが、これは重症なのではないだろうか?
「まあ、ちょっと」
「逢引とかじゃないだろ。守護者の仕事か?」
肩が強張る。
イレリアによく似たこの弟は快活で直情的な、アツシにとって一番苦手な系統の同胞だ。場を濁すただの世間話も口に出来ず目を泳がせる。ジーッと突き刺さる視線が痛い。同じ年頃のマワラ族で辛うじて雑談をかわすこともあるイレリアでも緊張するというのに、居たたまれずに顔をそむけてしまった。
「ええっと、俺のは大した事じゃないから置いといて、ノーディアの方がどうしたの?」
会話がループした。
お互い黙ってしまい、アツシは困って頬を掻く。風が通り過ぎて、肌寒さが過ぎる。溜息をついて折れたのはノーディアだった。
「こんな時間じゃないと泣いてるのがバレるからな。考え事してたんだよ」
「誰にも相談できないんだ・・・?」
「どうにもなんねえもん。こんな目じゃ」
膝に顔を埋めて沈むノーディア。彼は先天的に視力が弱く狩り手になれなかったというのは知っている。生活には困らないが弓で獣を狙えないのだ。至近距離にさえ詰められれば弓の扱い自体は悪くないらしいのだが、足で獣は追えない。草原では猛獣の群れに会う事だってある。接近を許せば危険な状況だ。
あれよあれよと狩り手からはずされたノーディアに新しく与えられた役割は畑の管理だ。普通は子供が任されるのだが、マワラ族の中では老人と子供の仕事で。
「君はよく働いてくれるから助かるって聞くけど」
「子供と同じ仕事でな」
「織物も手伝ってるって。凄く上達したんだってイレリアが褒めてた」
「女の仕事だけどな」
18歳の鬱屈した将来の悩みに硬直してアツシは火で所在無さげに円を描く。
「狩り手になれないなんて・・・」
顔を埋めた膝の間から水滴が落ちて草に当たる。アツシはおずおずと頭を撫でる。弓の練習をしても他の子供と同じ様に上達せず、彼は人一倍修練を詰んでいた。どうしても獲物に当てられないノーディアが実は弱視であると判明したのは16歳の頃だ。
なると信じていた道が閉ざされ、別の道に進まなくてはならないというのはどれ程の苦痛だろうか?
「分かってるんだ。他の連中に気を使われながら狩りをしたって結局こんな気分になるって事くらい。気持ち切り替えて畑に力を入れるべきなんだって。あれも重要な役割だよ。俺にはこれしかできないって納得しなきゃ。だからこんなの知られるわけにはいかなかった」
切り替えなければならない。
アツシはノーディアの頭を撫でながら、その苦痛なら理解できると思った。
「悩みに対して正しいからって出した答えに気持ちが納得できない時はさ、本当は選びたい答えが他に隠れていて、ノーディアはそれを井戸から引っ張り出している最中なんだよ」
頭を上げる気配を感じて手を離すと、ノーディアの目に溜まった涙が大粒になって落ちた。
「だから、すぐに決めようとしないでもう少し悩んでみなよ。他にどんな答えがあるんだろうって。選びたい物を思い切ってやってみた方が、きっと良いはずだから」
口を半開きにしてアツシを凝視するノーディアに、今度は顔をそむけずに荷物をちょっと持ち上げて見せる。
「狩り手を見てると辛くて考えられないなら、それが目に入らない、まったく関係の無いところで一度考える旅に出てみるかい?俺と一緒に集落の外へ」
徐々に開いていくノーディアの口が、今やあんぐりといわんばかりの唖然とした物に変化していた。大きな目が丸くなって、言葉を失ったノーディアに腕を捕まれた。
「た」
「あ、その、騒ぐのは無しで頼みたいんだけど」
草を踏む音がその背後で鳴った。驚きでアツシとノーディアは上を振り仰ぐと、囲いの中から人影が1つ見下ろしていた。
「なんだ。獣でも入り込んだのかと思えばノアに、アツシか?えらく珍しい組み合わせだなあ」
族長の三男ケオンだ。弓を器用に回して「こんな時間に何してんだ?」と問う姿に、アツシは立ち上がって走り出した。
「あっ、待って・・・俺も行く!!」
ノーディアはアツシを止めるどころか本当にその後ろを追って走り出した。
「は!?行くってこの時間に何処へ?おい、アツシ、その荷物なんなんだ!ちょ」
突然の事態に慌てたのがケオンだ。よく分からないが同胞が突然、大荷物抱えて集落の外に逃げ出したのだ。柵を跳び越えたケオンは追って来る。
これは不味いとアツシは振り返って声を上げる。
「どうしてもやりたい事があるんだ!ここは見逃してくれ!ちょっと旅に出てくるだけ」
「旅ぃ!?ちょっと待て、本当に、ちょ、旅!?どういうことだ!待て、戻れって!」
「ケオン、お前は帰れ!」
ノーディアがケオンを振り返って叫ぶ。
暗闇の中を全力疾走する3人の人影が月夜の下で走り抜けて行く。
「ほっとけるか!聞いてないぞ!そんな旅なんて、そんなもん反対されるに決まってるだろうが!?説明を、説明を求めるぞ、俺は!」
「今、アツシが説明したじゃねえか!」
「アレで納得できるかあああ!!」
「危ないから引き返せって!このままついて来る気かよ、ケオン!」
大きく息を吸ってケオンが空に叫ぶ。
「このまま引き返したら見失うだろうが!行き先を告げろおおおお!」
結局、マワラ族の集落から一番近いエンドの町まで走り続けた3人は重なる様に入口で倒れて、朝方に何事かと驚かれた。
大荷物からアツシがマワラ族の生地や服を売り飛ばして旅の資金を作るかたわらでケオンは必死に思い留まる様に説得を続け、ノーディアはアツシのやる事に興味を持って質問を繰り出す。馬車に乗り込んで逃亡を謀るアツシに、ケオンは馬車に飛び込んで追跡して、旅をしないマワラ族では右も左も分からない様な場所まで来るとケオンも段々と諦め始めて、これからどうするのかという話になって。
ノーディアとケオンはアツシが迷っている間に簡単に距離を詰めてしまった。マワラ族に対して負い目を感じているアツシは、大量の好意や向けられる関心に息も出来なくない。
今までほとんど話した事もなかったというのに、どうやって好意を返せばいいのか分からなくて。
アカリが大学へ進んだ理由は単純だ。マワラ族が穏やかに暮していけるだけの技術が、この世界には存在する。それがどれ程のオーバーテクノロジーになるのか知りたかった。どうにかすれば、あちらの知識で似た様な物を作れるかもしれない。旅に出たのもただただそのためだけに。
己がマワラ族なのか、ガザル族なのか、日本人なのか、何にも属せない者なのか分からなかった。それでも、守護者としてこの計画を成し遂げる事さえ出来れば躊躇わずにマワラ族だと言えそうな気がして。何より、この愛しい故郷を守りたくて。
そして。
肩から上半身が折れて横に叩きつけられ、アツシの体は潰れて首が捻れる。
それなのに視界には空に吼えて泣くオブリが見えた。泣いている仲間、バラバラになっている自分の体。全て闇に塗りつぶされていく。誰の目から見ても明らかだろう。
マワラ族の青年の旅は処刑場で終わった。
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