ライフ オーバー 2




 机に投げ出している提出予定レポートの前で、椅子の背もたれから頭をそらして燃え尽きるアカリ。彼女の前の列に現れた男がレポートを見下ろし題名を読み上げる。


「『無人島でいちから作る機械の部品について』?何か課題からズレていないか、Frauleinクロガネ」


「フロいらん?いや風呂には朝方入ってきたよ。バルリング君は失礼だなあ」


 身を起こすアカリに片眉を上げて彼は薄笑いを浮かべる。フロイライン。本当はドイツ語でお嬢さんの意だ。天然でパステルカラーな髪と瞳、日本にはいない色素人種だが同じ授業を選択しているので顔を合わせる事もある。留学生というやつだ。


 普段アカリと話すわけではないのだが、目に入った内容が気になったのか、分厚いレポートをパラパラと読み流していく。それを疲労感を漂わせて眺めながらアカリは満足そうに口角を上げてヘラヘラとした笑みを漏らす。


「大丈夫。無難にレポートをクリアーできそうな物も用意してあるんだ。下水道を有効活用した水力発電の効率的な生産構造と汚泥ガスの有効的なエネルギー変換への追求。そっちは中山先生に個人的に提出して添削してもらう予定の自己研究作なんだ。いつも振られちゃうんだけど、提出物として渡されれば目を通さないわけにいくまい」


 アカリは同じ分厚さの物をカバンから取り出すと、上にドサリとこれまた重量感のある物を重ねた。留学生は軽く引いて顔を引きつらせた。提出せねばならないアカリとしてのレポートと、研究したいアツシのレポートがそれぞれ違うのだ。


「この分厚さは嫌がられるな。熱心というか、よくやるな」 


「おい、奥に詰めろよバルリング」


 目の前にいたバルリングが奥に押しやられ、アカリの目の前を遅れてきた男が陣取る。甘い女の香水と酒の匂いが微かに漂った。彼はカバンからレポートを取り出しながら真後ろに体を捻ってアカリに顔を寄せる。


「おっはよう、クロガネちゃん。相変わらずレポート大量生産なんだな。それ1つ代筆で売れば喜んで俺が買うのに」


「おはよう、有川君。なんだか眠そうだね」


「ギリギリまで粘ってたの」


「それでこの内容か」


 隣に追いやられたバルリングが有川のレポートをパラパラとめくって顔をしかめて文字を睨みつける。文字を追うごとにバルリングの顔は厳しくなっていく。有川は乱暴にレポートをひったくった。


「勝手に見てんじゃねえよ。昨日は急に入ったバイトで時間も無かったんだ。もう、とりあえず提出だけできりゃ俺はなんだっていいんだよ」


 ひったくられたレポートを見上げると「ファンタジーの世界にもしも呼ばれたら」という、ふざけたタイトルが目に入った。「うわー」とアカリは両手を伸ばす。


「読みたい、読みたい」


 手元に寄せた有川は悪そうに笑って身を乗り出してレポートをアカリから遠ざける。


「えー、どうしよっかなあ。お礼にデートとか」


「むしろクロガネに土下座してレポートを1つ借りるべきだな」


 ガツンとバルリングの椅子を有川が蹴り上げる。そのタイミングで講義室へ教師が現れた。アカリは頭を振って教壇へ意識を固めた。意識がユラユラと揺れ動いていた。恐らく<あちらの世界>で呼ばれているのだろう。


 だが<眠る>わけにはいかなかった。ただなんとなく単位を貰うためだけに授業を受けているのならそれもありだろうが、アカリは知識・技術を限界まで習得するつもりだった。『女の子が選ぶ様な学科じゃない』と母に反対されながら、せっせと稼いだバイト代で授業料を自力捻出しているのだ。学校という場所にいられる時期はもうわずか。無駄には出来ない。


 今<起こそう>としているのがノーディアやケオンならば、もっと激しく性急に脳が揺さぶられているだろう。その場合アカリの体は気絶するように<眠る>。あちらの世界で狼の群れに襲われた時には駅のホームだった。線路に落下していたら、もうこちらで目覚める事はなかっただろう。次に激しい揺さぶりがあったら、静かにゆっくり床に伏せて気絶しようと思ったくらいにはタンコブは痛かったが。


 緊急事態でなければ止めて欲しいと願うアツシに、夢の世界で怪我をしないよう一応配慮するというのが2人のノリだ。とはいえ、あまりに夜更かしが過ぎると控えめに覚醒を促されたりはするが。


 だが今はそんな時間でもない。アツシを起こそうとしているのは、おそらくだが見張りに参加させたい傭兵達なのだろう。何か異変があれば鳴り子が反響して気絶はせずとも強く意識が揺れる。この程度の<眠気>なら耐えれてしまう。


 もうお気づきだろうが、アカリとアツシは眠りというあいまいなものを境にした同一人物だ。こちらで前後不覚に陥れば、意識は必ずあちらに跳ぶ。


 どういう仕組みかは分からない。時の流れは少し違う。正確に測定したわけではないが、眠る時間が8時間でもあちらでの時間は2倍の16時間程度のタイムラグがある。生まれた頃から一度もそれはずれたことが無い。人よりも若干多めに与えられた命と人生の数。


 実際など分からない。だが、誰もがそれを夢と呼ぶだろう。


 







 薄暗い店内は淡くピンクの光を散らした怪しげな雰囲気をかもし出している。低めのテーブルと柔らかく沈み込んで何時間でも座っていられそうなソファ。カウンターには洒落たビンが並び、磨き上げられたグラスは逆さまに釣られてピンクの光を跳ね返す。


 バーテンダーがカウンターの中で何を注文されても良いように酒の配置を整え、入口にはめかしつけた綺麗どころの写真の歪みを直す店長がいる。入口から店内に続くまで写真は大小並べられていて、中に入っていくほど被写体が怪しく崩れていく。


 ここまで来れば気づく。そう、誰もがそれをオカマバーと呼ぶことに。


「ちょっとアカリ、あんた髪型崩れてるじゃない。しっかりしなさいよ、お客さんに見られちゃうでしょ」


「私はウエイターだから少しぐらい許されるんだよ、コマキちゃん」


「許さんよ、クロガネ。店内法度第1、接客はまず爽やかにあるべし」


 店長が側を通りかかって忠告しながら厨房に入っていく。破ったら切腹でも命じられそうなルール名だ。


「正真正銘の女がそれでどうするのよ。こっちおいで。応急処置するから」


 長い薄っすらとウェーブした髪を盛り上げて垂らす、背のスラッとしたお姉さんに見せかけたお兄さんがカウンターの椅子に手招きする。ウェイトレスではなくウェイターの背格好をしたアカリは疲れ髪をかきあげながら寄って行く。


 椅子に座って整髪材を渡すと、眉を寄せてお兄姐さんはアカリの顔を鷲づかみにする。


「ちょっと、勘弁してよ。この紫外線の強い時期にノーメーク!?素肌美人舐めんじゃないわよ!」


「こま、コマキちゃん、首がもげる」


「きゃー!」


「いやあ!」


 紫外線に反応して化粧室から野太い悲鳴だけが上がる。乙女めいたか弱い悲鳴はおそらく掻き消されたのだろう。音の性質上。


「だから私はウエイターさんなんだよ、コマキちゃん。化粧いらないでしょう。それにもう夕方だから紫外線大丈夫」


 コマキは「まったく・・・」と手品師の手腕で櫛を現してアカリの髪をとかす。ピンクの光がヌラヌラとテーブルを照らすのを目で追うアカリの首が大きな手の平で絞められて動きを塞ぐ。


「紫外線っていうのはね、部屋の電球からでも発射されてんのよ。ちょっとくらいが数年後の第三次世界大戦を引き起こすの」


「ピンクの紫外線爆弾だね」


「せっかく女に生まれたんだから、ちょっとは気を使ってくれる?そういうマネばっかりしてるとX染色体貰うわよ」


「自力で工事してよ」


 完成したのか手鏡を手渡されてアカリは右向き、左向き、指で丸を作る。どうせ出来具合が微妙であろうとアカリはいつでもそう答えるのだが。


 化粧室からぞくぞくと人が出てくる。店を開ける時間だ。


 アカリの大学費用を稼ぐための現在の職場がここ、オカマバー『ピンクボン・バー』だ。最後のボンバーは酒を出す店という意味のバーをかけているらしい。


「よし、気合入れていくわよーん」


「「「はーい」」」


「あーい」


 最後尾、気迫のない声でアカリは小さく混ざる。ボンバーの閉店時間は2時。バイトのアカリがあがるのは22時だ。今日は一日定期的に意識を揺さぶられているので我慢するのにも気疲れした。傭兵達はまだ夜営の見張りに参加させるつもりがあるらしい。


 だがしかし。


「コマキちゃん、今日からフランス祭りイベントだね。待ちに待ったフランスフルコースだね」


 よだれを拭う動きをして力の無いヘラヘラ笑いをする娘に、コマキは怪しむ目を向ける。その様は流し目に見えなくもない色っぽさがある。衣装が逆転しているせいかもしれないが、これではどちらが女か分からない。


「あんた手がすいてる時だけだからね。客からコールがきて口の周りとか汚したまんま慌てて飛び出してこないでよ。まったく、客の食べ残しなんてよく食べるね」


「イベントが過ぎた後の賞味期限切れで作ったフルコースのまかない食だって楽しみだ。食べ残しだって、ちゃんとお客さんが汚い事をしてないか凝視して選別してるよ。うえっへっへっへ、これだからこのバイトは辞められませんねえ」


「そ、そう。客に悟られないようにね」


 レポートの提出日にバイトを入れたのもこれが目的だ。そう、アカリはわざわざバイト入りを今日から希望していた。むろんフランス料理目的だ。ボンバーでは接客のかたわら調理師免許なんかを持つオカマ達の手料理を味わえるというなんとも特殊なイベントをちょくちょく行っている。この腕前が評判で男から女までやってくるぐらいだ。


 あまりに稼ぎに影響してきたもので、昼間はピンクな蛍光灯から普通の光に切り替えてレストラン経営を始めてしまった。『ドキッ、オカマだらけのレストラン』のサイト名でホームページも大人気だ。ちなみにホームページは店長に頼まれてアカリが作っていたりする。顧客はばっちり、経営もどっしり。


 げに恐ろしきは料理上手なオカマ軍団の舌征服である。










 キッチンの端に椅子を用意して大きな口を開けたところで、呆れて口をべったり閉じたコマキに気づく。ウエイターのアカリがバイト終業なので、これからの時間は彼らが料理を作ったそばから客の元まで運んでいくのだ。


 口手前まで持ってきていたフォークを止めたまま、アカリが首を傾げる。


「なんでもないわよ。間抜けな顔しない」


 コマキは仕事ドレスの上からエプロンをつけて髪を後ろに流す。姿はともかく表情は料理人の玄人を思わせるものだ。


「ねえコマキちゃん、確かにこれは客の残りじゃないけど、ちゃんと形の悪い売り物にならない失敗残飯をキープした賄いなんだ。店の物に手は出してないよー」


「誰も疑ってないわよ」


「でもデザートが足りないでござる」


「金を払いなさい」


 ちぇーっと口を尖らせながら、アカリはフォークを動かしながら左手で本のページをめくる。何気なくテーブルに広げられた本は食べながら読まれていたものだったらしい。


「行儀悪いわよ。何、宿題終わったんじゃなかったの?」


「これはあっちの世界で欲しい知識があって中山先生を質問責めにした結果押し付けられた借り物。その名も製鉄技術の歴史的いろは」


「また精神状態を疑われそうな発言を。よそで言ったら病院に連れてかれるわよ」


「こんなにフルオープンにできるのは昔からコマキちゃんだけだよ」


 フライパンが火を噴く。ワインの香りが嗅覚をくすぐるので、アカリも本から料理に目が戻った。


「本当、続き物の夢なんてよく見れるわよねえ。器用。創造力豊かとしか言えないわ。あたしなんて好きな人の写真を枕の下に入れて寝ても好きに夢なんてみられないっていうのに」


「乙女だね。去年誕生日にプレゼントした『きっと叶う魔法のおまじない全集』をよもやプライベートで使っているとは」


「使わないだろう物をプレゼントしたのか、あんたは」


「客への話題提供とウケを狙ったつもりだったんだけど」と言いながらスープをすする。ついでに客の飲み残した酒を洗い場からつかみとってジョッキに移し変えていく。赤やら青に透明も混ぜて杯が満たされると、クイッと口に傾けて喉を鳴らす。


「うっへ、まずい」


「当たり前でしょう」


 アカリはちょっと悩んで、フォークに刺した最後の肉一切れを口に入れて、酒をもう一口だけ飲んだが顔をしかめて酒を流しへ捨ててしまった。


「一緒に旅してるケオンがよくやるんだよね。ノアちゃんが酒をいつも半分残すんだ。マワラが作ってる馬羊酒みたいに甘いのがなかなか無くってさ。私は色んなの飲んでみたくて初めて見たものを買ってくるんだけど、不味いとケオンにあげちゃうの。そしたら混ぜちゃうんだ」


「ケオンって子は前に神経質だって言ってなかった?」


 コマキがシンクにたんまり溜まった皿に向かい合って、スポンジに洗剤をかけて皿を洗い始める。どうやら皿の数が足りなくなったらしい。アカリは隣から手を伸ばして洗いあがった物を布巾で拭いて調理場に重ねていく。


「酒が入ってしばらくすると細かい事が気にならなくなるみたい。俺が野宿中に脱走してもボーっと見逃すし」


「ただの酔っ払いじゃない」


 イベント中のためにコップより皿が多い洗い物。調理台には水道水がいくつか並べられている。コマキはそこから1杯の水を一気に飲み干す。客と同じペースで飲む彼らは2時まで酔っ払えない。この調理場で隠れて酒を薄めるのはもはや義務だ。ただし胃の中で。


 コマキはガスコンロの前に戻り、フライパンを火にかける。あまりまだ仕事中のコマキと話してもいられない。ウエイターの格好のままアカリは棚からカバンをとって、コマキに向かって手の平を出す。


「コマキちゃん、部屋の鍵」


「・・・なんで」


「バイク乗れなくなっちった。飲酒運転だもの」


 フライパンを豪快に振り回しながら顔をしかめる。しかめはしたが、コマキは溜息をついて顎で化粧室の方を指した。カバンを勝手に探って持っていけの合図だ。


「おじゃましまーす」


 化粧室のロッカーからコマキの部屋の鍵を入手する。コマキの部屋はバイトとの交通の便がとてもよい。大学も家よりは近いので、ちょいちょいとアカリはコマキの部屋にあがりこむ。


「あんた、ご両親にいつもなんて言ってあたしの部屋に泊まってるわけ」


 コマキが微妙な不安を持つのも当然で、心は乙女でも戸籍上は男である。


「友達の家にお泊りしてくる。嘘はついてないでしょ?」


「・・・まあいいわ。あ、鍵はかけときなさいよ。部屋に入るときは周りを見回して誰もいないか確認して。あたしは店のマスターキー借りてくから。声かけられても隣のカナの部屋には連れ込まれないように話す時は3m離れて」


「なんでー?カナちゃん、いつもお菓子くれる良いオカ・・・」


「仕事終わるまで店の倉庫の組み立て式ベッドで寝ててもいいのよ」


「だってオカマ相手にどんな乙女のピンチがくるっていうのか」


「世の中にはリバーシブルがいるのよ、リバーシブルが。アカリだってあっちの世界じゃ男なんでしょ。それみたいなもので」


「よく分かんないけど、コマキちゃんの柑橘系の香りがするお姫様ベッド占領したいから分かったー」


「ちょっと、ソファで寝ないさいよ!あたしの寝床が」


「おやすみー」


「おおーい!」


 返事と共に裏口のスタッフ玄関からアカリの姿が消える。コマキは帰った後の一抹の不安を顔に表しながら、目を戻してフライパンの焼きあがった料理を皿に滑らせ、作りおきのタレを上に飾った。


 ピンクボンバーの夜はまだ後4時間はふける。










 ファンシーだったり魅惑の香りがする扉や廊下・小窓の影の間を通りながら、シンプルな薄いオレンジの扉にたどり着く。改札には立川と書いてある。ちょっと古い型の鍵を差し込むと解錠音が鳴った。アカリがとってに手をかけた所で斜め後ろから気配がして肩を叩かれる。


 コマキの言いつけ、周りを見てから鍵を開けろを破る。


 振り返ると立て巻きロールを左肩に集めた細マッチョめのお兄姐さんがいた。非番で遊びに行った帰りか、買い物袋が片腕にかけられていてニコリと笑っている。


 ピンクボンバーの綺麗どころの一人カナだ。


 この時点でコマキの言いつけ2つ目、3m離れろも破っている。これは不味い。どうにか口止めをしなければアカリはまた叱られてしまうだろう。残念ながら、こっちの世界ではケオンの時のように叱られたら隠れるノーディア的な立ち位置の人間がいないし、コマキはケオンのように誤魔化されたりしない。


「こんばんわあ、アカリちゃん仕事終わりだね。なあに?またコマキの部屋に泊まるの?」


「うん。カナちゃんもおかえり。今日の髪型も可愛いね」


「美容院行ってきたからね。アカリちゃんはなんだかいつもよりビシッと決まってるじゃん。どうしたの?」


「今日のスタイリストはなんとコマキちゃんだったのです。という」


「なるほどね。あ、今日はノースキングのロールケーキ買ってきたんだよ。プリンもあるから、今日は私の家に泊まっていきなよ」


 ニコニコ手を引かれる。


 ここで重要なのは、コマキの言いつけではカナの部屋には入ってはいけないことになっているという部分だ。


 扉のとってを握り締めながら、強い力で腕を引くカナを引き止める。


「う、うわあ。食べたいけど私、さっきフランスフルコース食べてお腹いっぱいなんだ。それに明日も学校だから早く寝ないと」


「女の子ってスイーツは別腹でしょ」


 ツルツルに磨かれた取っ手がアカリの手の中からすっぽ抜けて、慌ててつかもうとするが届かずに、コマキの隣の部屋に引っ張っていかれる。


「いや、でも私ダイエット中かもしれない!」


 かもしれないって何だ。とはツッコまれなかった。


「じゃあ、食べた後に一緒に運動すればいいじゃない」


「夜中に運動なんてしたらご近所に迷惑じゃない?」


「大丈夫。そこら辺は暗黙の了解ってやつでしょ」


 扉の前まで来て鍵穴に鍵を差そうとしたカナの手を先回りして手の平で塞ぐ。頭より上にある目を横から見上げた。


「ごめん、コマキちゃんに泊めてもらうよう頼んでおいて部屋にいなかったら心配するから」


 鍵をカナの手から引き抜いて、その手でアカリの手を握る手を引き抜く。そして空いた手に鍵を返した。カナから背を向け、すでに解錠しているコマキの部屋の扉を開けて手を振った。


「また今度ね。おやすみ、カナちゃん」


 そのまま扉を閉めようとした所で扉がカナの手によって阻まれる。そのままヌッと顔を伸ばしたカナはアカリの頬に唇を寄せてキスを落して耳元で囁いた。


「じゃあ今度はコマキの邪魔が入らない時に誘うわ。おやすみ、アカリちゃん」


「ひゃぎ!?」


 思わず変な声を上げて耳を押さえると、扉からカナの手がはずれ今度はあちらから閉じられた。反射的にコマキの言いつけの鍵を閉めろを実行する。


 とりあえず、言いつけは5分の確立でしか守れないアカリである。「ぬー、悪戯されてしまった」と、ほんのり熱くなった耳と頬に手を当てながらアカリは結局口止め出来なかったのを思い出す。が、仕方ない。


 勝手にコマキの部屋に置いてある膝丈まであるワンピース型の眠着を取り出してタオルを拝借してシャワーに入る。


 髪を流すと固められていた感覚から開放されて肩口で髪が揺れる。


 シャンプーを手にとった所で視界が揺れる。湯から出た湯気のせいか、首を巡らせたが揺り返しで身体まで前につられかけて壁に手をつく。そのまま足に脱力感を覚えてふらつき、冷たい壁に尻からぶつかった。


「ひあっ!」


 一瞬意識がハッキリするが、これは、呼ばれている。


 我慢、できない。


「ん、あ」


 ズルリと壁から床に滑っていき、シャワーのノズルに最後の気力を振り絞って手を伸ばし、湯を止めた。それまでだ。角に身を預けた瞬間、壁よりも深く沈んでいく感覚がする。


 落ちる。










 空が薄っすらと青い紺色と水色の間で染まっている。木々の間を光が照らし、焦げ付いた木に水をかけた時のすえた臭いが鼻をつく。イラついた顔をしたむさ苦しい顔が一番近くで強く肩をつかんで揺らしていた。その揺り動かし方に容赦が無かったのだろう。


 舌打ちをして肩から手を離した傭兵は立ち上がり、上から睨みつけてくる。性急な世界の移動による衝撃でボンヤリとしながら軽く上半身を起こして頭を掻くと、またカチューシャをつけっぱなしで寝た事に気づいた。


「喧嘩売ってんのか!!」


 ノーディアの怒鳴り声で意識がクリアーになる。帰宅したコマキは怒るか心配するだろう。なんせ今、完全に風呂で寝た。湯が出しっぱなしにならなくて良かった。4時間も出しっぱなし。なんとも恐ろしい水道代を叩き出しそうだ。


「おはよう、ノアちゃん、ケオン、えーっと傭兵さん達も」


「アツシ!こいつが俺を叩き起こした!!酷い乱暴された!!もう嫁にいけなくなった!!」


「ノアちゃんは可愛いから引く手数多だよ。駄目なら俺がもらってあげるよ」


 ケオンが顔に手を当てる。


「朝から頭の痛くなる会話はよせ。お前らどっちも男だろ!!」


 疲労感を漂わせた怪我人の傭兵達は本当に夜の見張りを交代して行っていたのだろう。鳴り子が無事な様子を見れば何もなかったことは明白だ。文化が違うのでマワラのやり方を信用できないのは分かるが、あちらのやり方を押し付けられるのも困る。


 何より、八つ当たりをするなら己だけにしてくれれば仲間の機嫌を損ねることもなかったのに。


 ケオンは起き上がってすぐさま荷物を担ぎ上げた。それからアツシに手を貸して起き上がらせ、顎で傭兵を睨むノーディアを指す。アツシも自分の分とノーディアの物を肩にかけて癇癪持ちの仲間に手を差し出した。


「ノアちゃん」


 口を尖らせて低く唸るもののノーディアはアツシの手を渋々とった。傭兵達の仕返しなのか、周囲はすでに出発する気配だった。朝食は歩きながらになりそうである。周囲の罠をできるだけ速やかに解除して彼らからノーディアを引き離した方がよさそうだと思考を巡らせる。この傭兵達の意趣返しに気づけば、喧嘩にでもなりかねないなと溜息が出る。




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