ライフオーバー 5




 肩を超える高さまで重なる本、本、本と一番上に1枚のディスク。最後は落とすといささかマズイ。表紙が擦り切れているブ厚い本を最下層にして腰骨を支えに持ち直す。


「おあ、あ、あ、んあ!」


 バランスを取り損なって落下しかけるディスク。それを上から皺を深めた男の指が押さえた。この中年教師の表情は片目を閉じた難しい表情で呆れていると物語っている。


「いっぺんに持っていこうなんぞせんと2往復ぐらいしなさいよ、クロガネ。転げて下敷きにでもなったらお前さんアッサリ潰れるぞ。速報!女子大生が本に埋もれて窒息死。大学でホラー系のキャストとして語り継がれるのは間違いなさそうだ」


「いやでも中山先生、いつもはコレ位チョロイんですよ。織り機、野宿セット、携帯食、着替え、その他もろもろを担いで山を3つ4つ越えるのだってやぶかさではなくて。とかいう感覚でウッカリ行動するから後悔するんだよな。か弱い腕が千切れそうです、先生」


「僕から本を借りるたびにこの会話なんだ。覚えていたかね、学習能力の無い可哀想な学生だよ。良い機会だから一度千切れてしまいなさい」


 割れて困るディスクだけを教師は確保した。つまりあまり重量は変わらない。廊下をヨタヨタと歩くアカリの手の中を見て教師は好奇の目を向ける。


「それにしてもキメラについて知りたいなんて、生物学科に好きな男でも出来たのかね。いつもタイムスリップでもしてエジソンに成り代わるつもりのようなネタしか聞いてこないのに」

 
「生物学科に友達いないから中山先生に頼んだんですよ」


「卒業間近だし、もうお前さんに友達作りなさいよとは言わないけどさあ。んーま、いいか。キメラね、僕も嫌いじゃないよ。ロボと同じくキメラはロマンだ。ロボはSFになくてはならんし、ファンタジーにはキメラがなくてはいかん」


 アカリはニッコリ笑って小首を傾げる。


「先生、私ちゃんと友達はいます」


「ライオンとトラを掛け合わせてライガーとかね、うん、寿命も短いし子孫を残せないから可哀想だけど。そうそう、僕が若い頃なんてクローンと並んで、人体を他人の細胞から構築して魂を移植するなんていう発表をした生物学の女性がいてねえ」


「オカマバーに努めてる料理の上手な幼馴染で、毎年プロポーズしてるけど通算10回振られてお友達」


「お前さんのそういう発言が色々と大丈夫かなあって不安にさせるんだよねぇ」


「4割がた冗談です。それより先生、金属の硬度と歪みについての相談なんですけど」


「本気の割合が多い件について」


 アカリと教師の目的地が廊下で分かれるまで質疑は繰り返される。もう本日の授業は終わっているので時間があった。窓から光を差す陽はまだ高い位置にあり、バイトの時間にはまだ早い。外が明るいから逆に暗く感じる廊下にはまばらに人がすれ違い足早に去って行く。


 ひとしきり質問して満足したアカリは、また荷物を持ち直して微笑む。


「これくらいですかね。じゃあ、ありがとうございました。本、読み終わったら随時返していきますねー」


「クロガネは本当に読んでるのか疑問になるスピードで返却してくるからなあ。持って帰るの先生大変なんだけど」


 本の上にディスクを置いた教師に重ねて礼を告げ、アカリは必死にロッカーへ向かう。持参のキャリーバックに荷物を詰めさえすれば、この脆弱な女の腕でもバイト先程度は行けるから。










『石膏で作る』『窯と私』『土の全て』『石器でカラクリは作れるか』『ピラミッドの呪い科学解析』


 とりあえず本屋のカウンターに並べられたそれらを前にアカリは腕を組んで唸っていた。他に客もいないので店員は黙って向かい合わせで立っている。


 大学の課題も終わって現在地はファシャバ、あの世界に機械という存在を持ち込むために研究するには絶好のタイミングとなる。給料日前で手持ちは貧しいが、収穫を得るためには知識という投資が必要だ。教師と図書室から10冊を超える難解な本を借り受けてもまだ不満。そんな貪欲な知識欲でブラリ立ち寄った本屋にて『ハイテク無人島』という文字が目に入ればカウンターに新しく置いてしまうというもの。しかし店員はカウンターに5冊の本を取り出した。


 アカリは店員のこの男と約束していた。取り置きは5冊までだと。そして基本的に取り置きを回避して新刊を買うのは違反、順次引き取りに来る約束。


 6冊目。


 無言にならざるおえない。先月もなんだかんだで給料が厳しく取り置き本を引き取りにこれなかった。だが内容的に今はあっちが欲しい。チラリと店員を見れば首を振られた。


「駄目だよ。最低取り置きを1冊は引き取らなきゃ売らないからね。それに売る側がこういうのもなんだけど前にも無人島系は買っていただろう。なんだ、君は山篭りか無人島で過ごす予定でもあるのかい?」


「別に無いですがコレはアレの続きでして。く、給料日前に2冊も買う手持ちが無い。ここは幼少時からの常連ということでお目こぼしを」


「ほんと売る側がこういうのもなんだけど、君は原始人の彼氏でもできたのかい?」


「生まれてこのかた彼氏も彼女もできた覚えがなくて泣けてきました」


 狩猟と農牧で生活しているユクレイユ地帯の部族衆がそういうカテゴリーに入れられるならば、そのうち妻になる可能性ならある。


 妻、と心に浮かべてみても想像はつかなかった。集落にいた頃には他部族の元に訪問すると見合いの話を持ち掛けられるという現象があり、アツシはよく物理的に逃げていたものだ。とはいえ22歳は立派なマワラ族の結婚適齢期。早ければ15でも子供を産むのだ。1つ上のケオンと1つ下のノーディアの顔が浮かんだ。


 別の意味で早く帰らなければいけない気がしてきたアカリは、諦めて取り置きの本を購入すべく手を伸ばした。だが、店の外から飛び込んできた怒鳴り声で注意がそちらに向いた。本屋のレジは店の入口付近、ドアは開け放たれていたので外はよく見えた。


「調子に乗るな!」


 小学生らが数人ばかり大人と向かい合っている。怒鳴ったのはその大人の男だと分かった。少女は6人、怯えて手を握り合い後退していたが、1人だけ毅然と口を尖らせて腰に手を当てている異質な少女がいた。他の子らに比べて殊更華奢で小柄に感じた。それなのに大きな口でガブリと少女らを食べてしまいそうな大男相手に、無謀にも前進して身を乗り出している。


「お金くれるっていうから友達連れてきてやったのに契約違反だわ!足元見ちゃって、お菓子買うんじゃないんだから!!」


「騒ぎ散らすんじゃねえよ!」


「怒鳴り散らしちゃってみっともない。子供相手に恥ずかしくないの!?仕事には正当な対価があって然るべきなの、分かる?そんなことも分からないくらいガキだとでも思ったわけ?」


「このっ」


「きゃあ!!」


 男が腕を振り上げた。それを見た後ろの少女らは一斉に悲鳴を上げて逃げ出した。先頭にいた少女は振り返って「あ」と忌々しそうな顔になる。アカリは強く足を踏み出していた。本屋の店員が止めようとした手も間に合わず。


 躊躇い無くアカリは大男と少女の間に足を踏み入れて彼の拳を片手で受け止めていた。そのまま勢いに負けてアカリは地面に突き転ばされる。驚いた男を振り仰いで、アカリはヘラヘラと笑顔を向ける。


「この時間帯の歓楽街はあまり人通りが無いとはいえ、熱いシツケは周囲が何事かと思いますよ、お父さん。それにこんな華奢な娘さんを拳ではちょっと。怪我をさせるのは本意じゃないでしょう?」


「俺のガキじゃねえ」


 大男は顔をそむけて即刻去って行く。転がされて尻餅をついたまま彼の後姿を眺め、距離が開くと少女の方を振り仰ぐ。肩をビクリと震わせた少女は疑惑のキツい眼差しでアカリを見下ろした。ゆっくりと立ち上がって腰を屈めると、一層警戒心を強められる。


「お金に困ってるの?」


「何よ、オタク女。関係ないでしょ」


 黒髪眼鏡な女子大生への認識のなんとシビアなことか。


「さっきの子達も困ってるの?」


 少女はしばらく考えてから、うつむいて両拳を振るわせる。


「そうよ。友達の父親が浮気して蒸発したの。母親もアバズレで子供を置いて若い男の所に入り浸り。小さい弟と2人で食べる物もない。だから、みんなでバイトして助けてあげようとしていたってわけ」


「そう、それは大変そうだ。食べる物だなんて今日の分もないの?」


 上目遣いで少女はアカリを見上げる。


「ええ、そうよ。施設に連れて行かれたら可哀想でしょ、友達。子供が大変なのよ。大人なんだからお金分けてあげようとか思わないの?」


「ちなみに何処の子か教えてくれな・・・」


「教えるわけないじゃない。おばさん馬鹿じゃない?」


 アカリは少女の手の平を包んでガマ口財布の中身をぶちまけた。少女は丸く大きな目をパチクリと瞬いてから、ニッコリ笑ってアカリを見上げた。


「ありがとう、お姉さん」


 脱兎逃げるように走り去る少女。残されたアカリは逆さまの財布を振りつつ見送る。財布からは埃しか出てこないわけで、本屋を振り返ると店員が半眼でカウンターを片付けてしまった。さらば『土の全て』。


「信じらんねー。クロガネちゃん、ナニお金なんかあげちゃってんのー?」


 肩を触られて本屋と反対を振り仰ぐと有川とバルリングがいた。大学の外で偶然会ったのもさることながら、この2人の組み合わせが意外で顔を見比べる。あまりつるんでいる印象はなかった。少し離れたコーヒーショップのロゴが入った紙カップを片手に湯気をたゆらせ良い香りだ。


「花の女子大生がロリ相手に援交とか超けしからんって言うか、そんなに欲求不満なら俺がタダで相手するのにぃ。会う日取りも決めずに持ち逃げされるなんて甘いねえ」


「エンコウ?」


 片眉を上げて留学生が易しい翻訳をアカリに訊ねる視線を向けたが、そもそも援助交際など身に覚えが無いので首を振った。


「友達のためにお金がいるんだって。このままバイトを続行されても困るし、友達とその弟君が飢えていないか心配だから仕方無いよ」


 有川は腹を抱えて笑い出す。


「嘘に決まってんじゃーん!もう、クロガネちゃんったら騙され過ぎっしょ。相対性理論でばっか脳みそ消費してたら負け組みまっしぐらだぜ?あーんな性根のねじれたガキの貞操守ってもすぐにこの辺で水商売に就職して捨てるに決まってんのに」


 一部始終見ていたようだ。


 アカリは「うーん」と言葉を探す。


「水商売のお姉さん好きだよ?ちなみにお水のお兄姐さんも好きだよ」


 バルリングが顔を引きつらせる。


「俺達がキャバクラ好きだって言うならともかく」


「奢りでなら私も行くよ?」


 衝撃を受けた顔でバルリングは後退したが、有川は頬に手を当てた。


「百合の花咲くクロガネちゃん、萌え」


 この歓楽街の更に奥、ピンクボンバーの本拠地界隈はオカマバー以外にそういう店がたくさんある。ボンバーは人気料理店でもあるのでキャバ嬢がボンバーに遊びに来る回数の方が多いものの、逆に懇親会で招待されることもあったりする。おこぼれだ。


 アツシとしても巨乳のお姉さんから受ける接待は楽しい。ただ、ノーディアやケオンには世の中にそういうジャンルの店があるという事実は内緒にしてある。カジノであの調子だ。モラルに頼るなんて言わない。最初からやらなきゃハマらないのだ。それに万が一女を買う買わないの話にでもなった場合が気まずい。


「で、これからクロガネちゃんは時間あいてる感じ?」


「バイトに行く感じ」


「えー、なんのバイトしてんの」


「ウェイター」


 バルリングは口元に薄笑いを浮かべる。


「普通、女性はウェイトレスだと思うんだがFraulein」


「だから風呂には入ってるってば、バルリング君」


 誰もいない所を有川は振り返る。


「え、俺ここ笑うとこ?」


「2人はこれから課題の打ち上げ?」


 有川が面倒そうにバルリングを親指で指す。


「そこでたまたま会ったの。誰だかと待ち合わせしたはいいものの、場所が分からず不審者してたんだと。テル番もメルアドも聞いてないとかないわ。んで、こいつはパソコンからならメール送れるつって俺の部屋にあがりこもうとしてるわけ。あ、俺ここの近く」


「コーヒー奢ってやっただろ。別に泊めろと言ってるんじゃないんだ」


「海外で迷子って心細いよねー」


 旅先では迷子常習犯なのでよく分かる。


「いや、留学して数ヶ月経っているから、さすがに迷子というわけでは」


 往来の真ん中で喋るにはそろそろ長い。アカリは本屋に放置しているキャリーバックの方角へ片足を向ける。


「そろそろ行くよ。じゃあ有川君、バルリング君、また大学でねー」


 歩きかけたところで後ろから有川がアカリに忠告を投げかけた。


「あのガキはここら界隈をしょっちゅうウロついてる悪辣で性質の悪い奴なんだ。甘い顔してたらカモにされるぜ。今時はガキですらスました顔して裏でまったく別人の顔面貼り付けてやがる。純真無垢なクロガネちゃんもいいけど、もー少し危機管理デキないと馬鹿っぽいかもよ?」


 振り返ってアカリは笑う。


「あはははは、もう財布カラッポだからカモれないよ」










「ほんと馬鹿よね、あんた。勉強できる馬鹿」


 ランチタイムが終了して昼のレストランは閉店。客のいない店内で優雅にソファで座るアカリの前に、残飯が乗った皿を持ったコマキがエプロンを片手ではずしながら座った。「美味しそう」と手を伸ばすアカリの手はコマキによって叩き落された。


「殴ろうとしてる人間の前に出るなんて女がする?そうやって危ない事に首ばっかり突っ込んでたら、いつか取り返しつかなくなるんだからね。自分がか弱い華奢な女だってことを自覚しなさいよ、いい加減に」


「こればっかりは反射的なものなんだよ。視界の高さも腕と足の長さも運動能力も違うしさ、交互に体が入れ替わってるって言っても私は私なわけでロボットじゃないんだから切り替えは自己暗示だし。それにマワラ族では子供って最優先で保護するもんだと教えられるから、こう無意識に」


「脊髄反射で生きてるのね。知ってたけど」


 遅めの昼食を「いただきます」と上品に食べるコマキ。いつも注意されているのに擦り剥いて怪我をこさえてきたアカリはバツが悪くなって手にした本で顔を隠す。テーブルには大量の本が積み重ねられている。


「またやたら分厚い本よね。感心するわ。読むスピードにしても早いし」


「知ってるとこ読み飛ばしてるんだよ。同じような本を何冊か読んでるから」


 同じような種類の本ならば、別の本に載っている内容を噛み砕いているだけということもある。それでも新しい発想がないか流し読みするだけならそれは早かろう。


 現在読んでいた本も重厚な音を立ててページを閉じる。前髪が風でなびいた。「次」と目を向けた積み重なる本の最上部には他に比べて少々薄かった。表紙には描かれているのは、頭がライオンで蛇の尻尾を持ち翼を広げた鷲が背中に埋まっているという不可思議な生物だ。


「なんだかいつも読んでるのと雰囲気違うわね。この気持ち悪い絵何なの?」


「キメラかな」


「キメラァ?」


 ページをめくると神話、歴史から絵、実際に作ってみた実験動物の写真とが続いた。生まれたてから順を追って、無理やり合体させた翼が腐り落ち、生体が死に絶えるまでを。


「うっ!?」


 コマキは口を押さえて目をそらす。「ごめん」アカリは本の表紙を閉じて中断する。


「なんちゅうもん見てんのよ」


「あっちの世界ではこれよりエグいものも見るんだもん。自然界は基本的にグロテスクだし。でもこれって不思議なんだよね」


 アカリは表紙に目を落して撫でる。


「せいぜい馬車が限界の技術世界で、コマキちゃん、俺は子供の頃からキメラがあの世界にたくさんいるのを見てきてる。自然交配でも確かに生まれるみたいだけど、こういう不自然なキメラは科学技術なしで生まれたりしないはずなんだ。この3年旅で訪れた国ではちょっとでもそんな事が出来そうな技術国は無かった。科学って分野において俺の世界はとても幼い」


「聞いてる限りはファンタジーだもの。魔法使いでもいるんじゃない?」


 設備も培養液も手術室もあったものじゃない世界で、一足飛びに存在している合成獣。キメラという分野のみがアカリの世界以上に活発に息づいている。万が一の偶然で自然に生まれるキメラの形ではない。繋ぎ目もグロテスクで害獣とすら呼ばれる獣達。


「魔法でないなら作った技術者がいるんだ。こちらの生物学の知識と同等かそれ以上のものを持った人間が!だって土を練って生まれるわけがない。キメラを生み出した人が誰なのか調べることさえ出来れば、機械を作り出す参考になるかも」


 興奮するアカリに、コマキが眉をしかめてキメラの本を取り上げる。


「私なら会いたくないわね」


 読み終わっている本にキメラの本が静かに詰まれた。


「そいつはヌイグルミじゃなくて生き物を切り縫いしたって事でしょ」


 アカリは口を開けてコマキがキッチンに帰っていく姿を見送る。遅れてアカリから「あ」と1つだけ声が漏れ、水の入ったコップを唇に当てて困り顔で押し黙る。


 害獣と呼ばれるキメラも、殺される時には断末魔を上げて苦しんでしまう。襲われでもしなければ特に他の動物と分け比べない。草原の外の国ではただ存在するだけで厭われ退治している様子はあるが、マワラ族からすればそれは非道殺生以外の何者でもない。ただ、存在そのものが非道の末とは考えつかなかった。その謎に意識がいかない程度には昔から当たり前にいたのだ。


「謎な部分が多過ぎる」


 キメラは命も短く子孫を残せない。中山教師はそう言ったが、アツシの世界でのキメラは馬より少なくトラより多い。子孫が残せないとうのが適応されるのならば、キメラは何処から生まれ、何故生み出されているのか。


「なんにせよ、ノアちゃんとケオンを集落に帰してからだなあ」


 マワラに帰ると言ってから浮き足立っているノーディアとご機嫌なケオンの様子を思い出して小さく笑う。1人旅になればしばらく寂しくなるだろう。毎日の生活と調べ物でそれどころじゃない事を祈るばかりだ。










 薄暗い玄関を忍び足で進み、キャリーバックのコマが響かないように渾身の力を込めて持ち上げて運ぶ。部屋に荷物を放り込むと、カラスの行水ばりに短時間でシャワーを済ませ、軽装で台所へ向かう。冷蔵庫を開けて専用のキープしてあるペッドボトルをつかんで一口飲んでから、ペットボトルを持ったままアカリは踵を返した。


 ところで電気がつく。


 真夜中で誰も起きていないつもりが、動きを止めて電気のスイッチ方面を振り向くと眠そうな母親が腕組みをしている。


「年頃の女の子がいつもこんな時間に帰ってくるのは問題じゃないのかしら」


「いつものバイトじゃない、ママ。それにまだ0時だよ?大学生のね」


 頭痛でもするのか、アカリの母は頭に手を当てて首を振る。アカリの母はよくこの動作をアカリに対する時にした。言い聞かせるモードなのだ。


「そのバイトっていうのも飲食店なんでしょ。この就職活動しなきゃいけない時期に、もうとっくに辞めるべきだってママ先週も言ったわよね。残りの大学費用くらい出してあげるからって」


「あ、あは」


 指を隠して軽く擦り合わせる。


「もう遅い時間だし今度にしようよ。就職先についてはもう少し調べて考えたいんだよね。ちゃんと先生にも相談してるんだヨー。うん、色々と、まあまあ深く、考えつつうらうら」


 相談しているのは就職先ではなく勉強についてのみだが。


「この就職難の時代にアカリはノンキにも程があるのよ。あのね、パパだって安定した職業とは言い難いし、アカリは女なんだから余計に安定職はつかみ難いのよ?22にもなって彼氏の一人も作れないで嫁のいきても無いんだから職につく以外に生活なんてやっていけないんだからね。それともお見合いする?」


「いやぁ、なんか今日は彼氏について言及される日だなあ。勘弁してください」


「パパやママはアカリより先に死ぬの。もうこれは決まってるんだから、必ず仕事は必要なのよ。働かない人間に生きる権利はなし。遊んでいい時期じゃないの、もう少し真剣に職探しをしたらどうなの」


「うわー、それを言うなら働かざるもの食うべからずでしょ。なんとなく怖い言葉に直さないでもちゃんと探すから、ね?」


 3週間前に案内紙をパラパラとめくったっきりだが。


 母は溜息をついて大きく息を吸い直したが、アカリは時計を見てマンションの階下に響かない程度に母の声に台詞をかぶせる。


「就職を舐めてるわけじゃないけど、眠いからごめんなさい。おやすみ、ママ、愛してるわ」


「アカリちゃん」


 小さく咎める声からいそいそと自室に逃げ籠もる。軽く片手で謝りながら扉を閉め、パソコンのスイッチを入れた。


 中山から受け取ったディスクを入れて画面を前のめりで覗き込む。


 太陽エネルギーに頼ったカラクリ装置と仕組みについてだ。枕と布団を体に引き寄せて、ついでにノートとボールペンを側に置いた。


 あちらの世界でエンジンを作るよりも、自然エネルギーに頼ったカラクリが現実的なのだ。カラクリを作る技術や素材については1つずつ近い物を見つけていくしかない。マワラの集落にあれば、多くの命が購える機械がある。


 ずっと前からアツシは己の同胞のために生きていた。長く将来を見据えた使命として。


 申し訳程度の就職案内が1冊、パソコンの光を受けない場所に落ちていた。










 カラカラカラカラ音が鳴る。耳慣れた雑音、これは糸巻きだろう。


 眠っている人間を起こさない控えめな声で懐かしいマワラ族の歌が聞こえた。カッタンカッタンと織り機の音もしている。薄っすら開けた目に逆光で暗い部屋と窓から青い空が見えた。


 開け放たれた窓でカーテンがなびいている。後は鳥の鳴き声でも聞ければ爽やかなものだろうが、外から届いたのは商魂逞しい客の呼び込み。声がでかい。まあ、それでも気持ちのいい朝には違いない。いや、日の傾きを見れば朝と呼ぶには少し遅いのかもしれない。


「おはよう、ノアちゃん、ケオン」


「やっと起きたか。今日は調べごとしに行くんだろ?時間なくなっちまうぞ。アツシの用事が済んだら集落に帰るって約束なんだからな。寝て過ごすとかは今回無しだぜ?」


「聞いてくれよ、アツシ。みんなに買う土産をなんにしようか話し合おうぜっつったら、ケオンの奴が食い物ばっかりあげるんだ。こんな遠方じゃ腐るに決まってんじゃん。どうにかしてくれ、この胃袋男」


「美味い物をたくさん持って帰ったら、集落から姿消した怒りを少しは鎮められるってもんだろ」


「心配はしてるかもしんねえけど、そんな鎮めるとか大げさな」


「いや、少なくともイレリアは怒り狂っている!」


 不穏な事をさも楽しげに断言するケオンに「はあ?姉貴が?」とノーディアは年の近い姉の顔を思い浮かべている。快活で気丈で、なるほどノーディアの姉だ、と思われる彼女は常なら同年代の冷静な諌め役だ。


「説教はされそうだけど、そんなもん同胞全体からの話だろ。別に飛び抜けて怒られる要素とかねえし」


「いや、ノアにはなくともー」


「じゃあ、ケオンにか?」


 ぼんやりとアツシは故郷に残してきた母を思い浮かべた。引きとめられるのを恐れてこっそり集落から出てきた手前、1発くらいは拳がくるかもしれない。しかも3年音沙汰無しで他人まで巻き込んでいるのだ。


 ゾクリと身震いが背中を通り過ぎる。




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