ライフオーバー 7




 大学の図書室の一角でアカリは本を閉じる。その横には軽く座高を超える本が左右に積み重ねられている。その間で疲れを吐き出すために深く息をつく。


 マワラ族の集落を出て3年。草原にいるだけでは把握できない世間の技術上限を調べるべく色んな国を回ってきた。せめて代用技術でも見つかれば良いなと。実際には地道に鉄を叩き上げていくしかない事が判明した。


 エネルギーの代用という意味では中山教師の研究している自然エネルギーを取り入れられれば電気製品のカラクリは実現できるだろう。ただし、その部品が一番の難点なのだ。冷蔵設備、冷暖房器具、電灯、この3つがあるだけで年間何人の命が助かるだろう。


「科学の名を持つ悪魔かぁ」


 あちらの世界でのキメラ出現は魔法と呼ぶに相応しいだろう。基礎となる技術も知識も見当たらないのに、科学の進んだ世界よりもキメラの分野だけが明らかに革新的なのだ。分野によってそういう物が他にもないわけではない。


 異世界。


 論点はソレをこちらの世界と考えるべきかどうかだ。異能者とラーフが言っていた特徴はそのままアカリにも当てはまる。異世界から来たわけではないが繋がっているのは確かなのだ。


 キメラを作ったジンの祖先がアカリと同じく夢でこちらと繋がっていたと仮定する。何を思ってかの人はキメラを生み出したのだろうか。


「それにたった1人であそこまで世界中に繁殖してるのも変だ。本人は処刑されたって話だけど、あんなに多種多様なキメラがいるって」


 そこで矛盾に気づく。


 繁殖するわけがないのだから。キメラは違う個体との掛け合わせゆえに組織が反発し合い、お互いの血肉が排除し合う。そのせいで短命、繁殖能力を失うのだ。教師がそう言っていたではないか。


 ならば、どうして世界中で未だに爆発的な数のキメラが存在するというのか?今でも誰かがキメラの製作ラインを保っている。もしくは自動でキメラを製作するラインが存在するのかもしれない。公守は、ジンはその可能性も考えているのだろうか。


 急にキメラがファシャバの周りに増えたと嘆く人々。


「あそこに製作ラインが新しく作られた?」


「なんの製作ライン?」


 本の柱に手をかけて男の顔がアカリを覗き込んで来た。有川の出現に「あや?」とアカリが振り返れば後2人男が背後を固めていた。


「勉強熱心なのはいいけど、本当にこれだけの本を読んでるとか言わないよな、Frauleinクロガネ」


「本はしっかり読んで風呂にも毎日入っているよ。バルリング君は何か私に凄い偏見を持っているはずだよ」


 薄っすら笑っているバルリングと、見た事の無い男だ。その彼は有川を見て「これはあれか。フロイラインと風呂いらんをかけてるとか」と質問を投げかけていたが、有川は聞いていない。


「知ってる、知ってる、クロガネちゃんはいつも北王ブランドの石鹸だよねー」


 肩に手をかけてアカリの首元に鼻を寄せる有川に押されて若干のけぞりながら、見知らぬ男の方へ視線をやる。


「やー、私、有川君とバルリング君と同じ機械工学専攻してる鉄アカリっていうの。大体風呂は寝る直前に入ってるから0時位で、夏なんかはタオル巻いてうっかりそのまま」


「ストップ、ストップ、ストップ、クロガネさん。弁明しなくても別に疑ってないから。女子的に言っちゃ不味い事まで口走ってるから」


 初対面の彼は良識派らしい。


「え、それで朝にはそのタオルって肌蹴ちゃってたりとか」


「有川は便乗すんな。初めまして、俺は江崎隆で、生物学が本命だから授業かぶった事ないよな。挨拶ついでに忠告するけど、そこの変態とは距離置いた方がいいよ」


「生物学なの?こういうの勉強してるって事?」


 今まで読んでいた『人工生物』を持ち上げて振ってみせると、江崎は顔を明るくして手を伸ばす。


「おー、それ探してたんだよ。なんでクロガネさんがこんな専門書なんか読んでるの?」


「えーっと、表紙に可愛いライガーが見えたから気分転換にね。でもやっぱり生物学は難しいね」


 バルリングが本の積み重ねに近づいて「人工生物といえばキメラでニュースやってたよな」と何気なく話題を投げかけた。江崎はそれに笑顔で食いついてくる。


「おう、キメラ!ロマンだよなあ、ファンタジーでさ。でも実際にはえぐいぜ?まあ一度はやってみたい気もすんだけど、どうしても異物同士で反発しあって乖離するから生命として弱いんだよなあ。でも、そこら辺をクリアーできれば移植手術で革新的な進歩とかも望めたりするわけ。そこでだ、その理論を現実的に研究できるよう卒論をキメラで絞る事にしてだな」


 続いて有川が食いつく。


「ウサギ耳のキメラとかできないの?リアルバニーガール。江崎、お前作れよ」


「俺の夢を聞いてたあ、有川」


 がっくりとうなだれてしまった江崎に、アカリは思案する。


「江崎君、理論的にキメラの雄と雌を作れば次の世代で繁殖していって、新しい種族として定着できたりするかな?」


「あー、掛け合わせ方によるだろうけど可能だね。実用的なのでは植物で新種を作ったりしてるだろ?でも大量に同種のキメラを作って、時間かけて何世代も管理してないと定着するのは難しいんだ。何、クロガネさん、そういうの興味あるんだったらジックリ教えようか?こいつら用事あるからすぐ消えるし」


「卒論どうしたんだよ江崎。それよりクロガネちゃん猫耳とかどうよ。実はここにたまたま猫耳が」


「有川・・・」


 遠い目で見つめる江崎の視線の先で有川のカバンから猫耳が登場した。話が進まないのでバルリングが猫耳をアカリに装着する。ノリに乗って「そこで、有川君大好きだにゃん、って言ってくれ!」と有川がアカリを後ろから抱きしめる。いつもアツシがつけているカチューシャより重い。


「有川君大好きだにゃん。でもちょっと江崎君と話させて欲しいんだにゃん」


 江崎は控えめに手をこまねいた。


「ねえ、クロガネさん、彼女じゃないんなら抵抗した方がいいよ。こいつ本当に変態だから。後、有川、そういう萌え路線ありえないから。求められてるのはやっぱり医療系。脳死で移植が進んだっつっても、やっぱ本命は人工臓器だし」


 キメラを作った理由、それも時代が違えば動機は闇の中だ。想像するだけの。


 有川が江崎を押しのける。


「男の能書きはどーでもいいわ。クロガネちゃん、前に読みたがってた俺のレポートがあるんだけど」


 目の前にぺロリと出されたレポート用紙に、アカリは手を伸ばす。


「うわあ、わざわざ持ってきてくれたの?」


 つかみかけた所でレポートが手を避けた。有川は変わりにテーブルに身を任せて乗り出してくる。


「今度バイトの無い日に俺とデートしてくれたら、このレポートにクロガネちゃんの大好きなバイクの新刊雑誌つけてプレゼントしちゃうんだけどなあ」


「バイク」


「そんなアホなレポートでデートに誘うなんて正気か」


 バルリングの突っ込みに有川がアカリへ笑顔を向けたまま蹴りを入れる。


「留学生、お前なんか俺に恨みでもあんのか」


「有川のレポートの内容は浅はかでフェアじゃないと思っただけさ。なんで魔法ありきでレポートなんて立てられるんだ」


「もしもファンタジーの世界に呼ばれたらっつうレポートなんだから燃料魔力かもしんねえだろ。それ習って帰ってきたら石油枯渇も放射能問題も解決ー。はっ、めでたしめでたし」


「そもそも、レポートの議題から完全にはずれてるだろうが」


 あまりにも投げやりな内容に江崎が「うわー。そりゃ呼び出し喰らうわ。この前合コンとか行ってる場合じゃなかったくね?」とドン引きする。アカリは「燃料・・・」と呟く。


「魔力が駄目なら、じゃあ、バルリング君は何を同源にする?もしも、電気も科学の概念も無い世界で機械を作ることになったら」


 バルリングは真剣な顔で少し考え「普通に火か、いや、蒸気で・・・」と答えてから憮然とした顔になる。


「資源を消費しないためのレポートで原始に帰ってどうするんだ。周囲に森林が豊富で生活する人数が少ない状態でしか成り立たないから廃れたんだぞ。馬鹿の話題に引っ張り込まないでくれ、クロガネ」


「課題済んでまで熱心なこって。で、バイトいつ休みなの、クロガネちゃん」


「あー」


 そういう話だった。バルリングが再び「好みじゃないって言えば解決」と呟くので有川が胸倉をつかんだ。江崎が「やめてー、俺の前でトラブルはやめてー」と訴える。


「で、クロガネちゃんにとってイイ男ってどんなタイプなわけ?」


 有川が投げかけてきた質問にしばし虚空へ視線を預けて頭を捻ってみる。あまり考えた事がないような項目だ。イイ女についてはケオンなら巨乳と張り切って答える。そしてアツシは料理上手な良妻のオカマをあげるので『なんでアツシは必ず最後にオカマの項目をつけるんだよ!』と突っ込まれるわけだが。


「カッコいいよなあって思うのは、こう、脳みそまで筋肉で出来てそうな情熱的で強引な・・・・・・」


『このマワラ族が、いつか絶対に張り倒す!!』


 この世界にいない草原の男達の顔が浮かんだ。










 ざわついた控え室は化粧中のオカマでごった返している。コマキは端の席を好んで座るが、その更に内側にアカリが無理やりねじ込んで壁によりかかっている。客が入りだす前の手持ち無沙汰な間とはいえ一応ここは心は乙女の<男子更衣室>も兼用しているのだが、今更アカリに誰もツッコミはしない。


 鏡を覗き込んで口紅を塗るコマキが段々と半眼になってくる。無視をするのも辛くなってきたところだ。隣で何をするでもなく、口を開くでもなく、ただコマキを見下ろしてくるアカリの存在に。


 根負けしたコマキは化粧を切り上げた。


「あのね、化粧やりにくいんですけど。アカリに限って口紅が新色だわと思って見てるんじゃないんでしょ。用件を言いなさい、用件を」


「うん、気づかなかった。でも新色でも古色でもコマキちゃんが好きなんだ。結婚してください」


「そこの眼鏡女、口紅塗って接客させてあげましょうか」


「まさかの!」


 オカマバーでキャバ嬢をして需要があるかどうかは未知数過ぎる。それともウェイター姿で口紅だろうか。どちらにせよ、新境地だ。


 とにもかくにも、いそいそと身を屈めたアカリは話を切り出した。


「あっちの世界でキメラを作った人物は有名だったみたいでさ、俺、その子孫と会ってたみたいなんだ」


 コマキは毛先の枝毛を探しながら「それはまあ、ご都合主義なタイミングで」と溜息をつく。アカリの方はせっかくまとめている髪を掻き崩して眉尻を下げる。


「罪人扱いだったんだ。キメラは組み合わせ次第で確かに危険な固体になりうる。いわゆるモンスターを製造した罪でキメラの第一人者は処刑されたんだ。そして末代まで罪を償うべきというのがクォーレル国の方針で、俺の会った男もまた罪子となじられているみたいだった」


 マワラ族には罪子の立ち位置が分からない。それはこちらの世界でアカリとしての頭を通してもなお浮いた存在だ。罪とは遺伝するものではなかった。だがラーフは当然のこととして憎み、罪子としてジンは使命を果たしているようだ。


「非道に思ってはいけないだろうか。段々たまらなくなってくるんだよ。子供に罪を償わせ憎しみをぶつけさせる制度を、他国の正義だと口に出すべきではないだろうか」


 少し考えてコマキが服の裾を払う。


「別に悪徳だって思うくらい構わないと思うわ。罪人として接する必要もないと思う。外国にいるからって自分の正義まで曲げる必要はないんだから」


 見下ろしてくるコマキが電灯を覆って影を落とす。


「でも口に出すべきじゃないでしょうよ。恨みつらみが関わる物事に他人が介入するのもね。一族郎党皆殺しにされるってわけじゃないんだし、勝手に可哀想だって決め付けちゃう事もないわ。本人が償いに納得してるなら他人が可哀想な事だって意識を変えさせて苦労する道を選ばせる必要はないでしょう。最後まで助けてあげるならともかくね」


「確かに、生半可な心積もりじゃな」


「罪人の子って、多分あんたが考えるより複雑な感情を抱くわ。例えば、あんたの親が何か悪い事をしても嫌いになったりしないけど、よく知っている人間だからそう言えるだけで、私だって犯罪者の子供って聞けば犯罪者に教育されてるんだろうから同じ事をするかもって警戒はしちゃうだとかね。その子の常識、世界の非常識かもしれないわけだし」


「そ、れ、は・・・そう、なの?」


 あまり納得できずに困惑したアカリに「あんたは昔からそうね」とコマキは苦笑する。「人の複雑な負の感情が理解できない」と「でも、まあ」、そう続こうとした言葉が途切れて目を丸くした。


「難しい話はよく分からないけどー」


 アカリは前方にしゃがんだ第三者が大きな体で覆い包むつもりでぶつかって視界をブレさせた。世界跳躍するかと身を硬くするアカリの心境など分かるはずもなく、乱入者の言葉は続く。


「犯罪者の子供っていうだけで単純に気持ち悪くない?去勢しちゃえばいいのよ。いなければ気にならないけど、いると人を不愉快にしちゃうんだから」


「カナ!人の会話を勝手に!!」


 もがいて顔を見上げたアカリの側で、カナはコマキに向かって舌を出していた。まだ騒がしい控え室の中でドレスの裾をさばいて床に膝をついてまで構ってくるカナ。涼しい顔で、何処からか話を聞いていたらしい。


「どうして子供が気持ち悪いの?」


 不思議だった。アカリは、アカリも、出会ったらそう思うのだろうか。ジンに感じなかったのはキメラの惨劇とやらの詳細を知らないから?


 カナが聖母とも呼べそうな穏やかな顔でアカリの両脇床に手をついて囲みながら斜め上で語りかけた。


「アカリちゃん、だってよく考えて?例えば貴方が強姦されて生まれた子供は罪の象徴でしょ?もし生まれちゃったら憎いでしょ?裁判を開いて有罪になるなら子供だって刑罰に処したくなるじゃない」


「・・・だって、子供には、罪がないよ?」


 分からなくなってくる。いや、元から罪子を否定する言葉を求めていただけだ。助けるのが人の道だと断定さえしてくれれば、もしくはそうでないなら完膚なきまでに捨て置くべきものだと納得するだけの理屈があれば・・・・・・だが、これでは。


 軽く腰を伸ばしてカナは手を振った。


「悩まない、悩まない。当事者にならないで、ずっとそう思ってる可愛いアカリちゃんでいられれば難しい選択しなくてすむじゃない。子供は無垢!アカリちゃんは良い子よねー。でも油断は禁物」


 控え室からホールに続く入口で「指名よー、カナ」と声が響く。それでもノンビリとアカリの髪を撫でるカナにコマキが声を低める。


「呼ばれてるでしょ、カナ、行きなさい」


「アカリちゃんだって行かないといけないと思うんだけどなあ」


 カナが2回目の催促の呼び声に「仕方ね。じゃあねん」と後ろ向きに手を振って去っていく。その後姿をなんとなく見つめ続けて、アカリはもう誰もいない入口に目をやったまま身を硬くして顔を歪めていた。


「憎むのかな、私は。罪人の子供は憎まれて当然なのだとしたら、関係のない人間がそれを否定すること事態が偽善なのかな。それが私が求めていた答え?」


 胸の前に自然と両手を組んでいた。ずり落ちた眼鏡が手と胸の間に落ちる。握り締めた両手を胸に押し付け眼鏡をそのまま潰しそうになっている手をコマキがつかんで止める。


「違うでしょ」


 視線の先がコマキに戻される。


「確かに憎しみに囚われずにいるのは難しいわ。だから、憎しみを持っていない人間が支えればいいのよ。代わりに愛してあげればいい。どうにかしてあげようと思うんじゃなくて、ただ酷い言葉を言われた分だけ優しさでバランスを取ってあげればいいのよ」


 目をゆっくりとしばたいて、アカリは気の抜けた声で微笑む。


「じゃあ、私は安心してご乱心できる果報者だね」


「あんたねえ」


「やっぱりコマキちゃんは良いオンナだ。俺がこっちで男だったら絶対プロポーズするんだけどなあ」


「オンナでも構わずやりやがるくせに」


 コマキの前髪を上げたアカリが額に不意打ちでキスをする。「仕事をしろ」と店長から声がかかって、コマキには顔を突っぱねられたアカリが笑って髪をかきあげ直した。


 役割を分けバランスを取る。足りないところを補い合い、寄り添い合って生きていく。


 共依存。


 それはマワラ族の生き方そのものだ。










 愛車の前に立ったアカリは車体に落書きされた部分を哀しげに撫でる。油性ペンででかでかと描かれた模様は残念ながら趣味ではない。メタリックな輝きにエンジン音と力強く転がるタイヤで馬には無い速度を疾走していく。これこそがバイクの醍醐味だ。


「かっこ悪い。俺の趣味じゃない」


 除光液なりシンナーなりで消せるだろうが色がくすむリスクはいかんともし難い。明るい看板に照らされながらも時は夜。肩を落としながらバイクのキーを探る。


「・・・から・・・待って・・・」


 建物の間から悲痛な声が聞こえて顔を上げる。体を少し傾けると自転車をねじ込んだ路地で女性の後姿が見えた。


 立ち尽くして心ココに在らず、といったところか。力なく振り返った女は見覚えがある。


「金森さん?」


 しばらく間をあけ顔をあげたのは、ランチタイムのピンクボンバー顔馴染みの金森だった。普段ならまだ斜向かいの店で仕事中の時間だ。なにせピンクボンバーと同業と呼ぶに近くて遠いキャバ嬢である。


「ああ、ピンボンの・・・」


 声をかけた時の反応に常とは違うものを感じて距離を詰める。やはり顔色が良くない。焦点が怪しく熱に浮かされた風だ。これは体調不良で早退したのだなとアタリをつける。フラフラと金森は自転車に手をかけて解錠する。アカリはバイクから同乗者用のヘルメットを差し出す。


「気分が悪そうだ。家まで送って行くよ」


「大丈夫、自転車で来てるし、次に来る時に面倒だから」


「鍵貸してくれたら私が後で取りに来るよ。こんな夜更けに気分の悪そうな女の子置いていけない。大丈夫、送るだけだから変な事しないよ」


 金森が変な顔になり、アカリは自分が変な言い回しになったのだと舌を出す。迷ったらしき金森は「でも、そんなことしてもらう義理無いし」と、気だるそうに断ろうとする。アカリはヘルメットをバイクに戻して金森の手を取った。


「駄目だよ」


「え、ちょっと」


「バイクが嫌なら私が自転車を押して歩いて帰ろう。でも、君が自転車に乗って帰るのは駄目だ。足元が怪し過ぎる。途中で倒れたらどうするの。お酒も飲んでるでしょう?」


 まっすぐに立ち止まってもいられず、時々あちらこちらに足が踊っている姿は誰が見ても軽視できる状態ではないだろう。


 金森の手に見つけた鍵をやんわり奪って自転車を代わりに押し始める。呆然とした状態で金森が動き出しそうにないので、片手で自転車を押しながら彼女の手も引いた。


「本当はタクシーで送ってあげられたらいいんだけど、今月金欠で手持ちが無いんだ、ゴメンね」


「それは、別に」


 言葉少なに顎を引いてフラフラとアカリに引かれていく金森に、もしかしたら途中で倒れる予感も少なからずみられた。いつもはアカリの方が圧倒されるくらいのマシンガントークの女である。


「家こっちでいい?」


 顔を押さえながら頷く金森は、何故か嗚咽し始める。


 ギョッとしたアカリは立ち止まって金森の手を軽く振る。


「どうしたの?やばいな、やっぱりタクシー使う?いや、金はないんだけどボンバーに戻ってコマキちゃんか誰かに金を借りればどうにかなるし」


 人通りの少ない通りを見回して思わず「俺何も悪いことしてナイヨー」と小声で言い訳してしまうアカリ。それに金森が勢いよく首を振った。「え、悪い事してる!?」と返したアカリにもう一度金森が首を振って、その振動で脳が揺れたのか、横に倒れかけるものだから自転車を手放して金森を両腕で支える。


 自転車の倒れる音に思わず目を瞑る。金森を見ると、アカリの両腕をつかんで金森が声をあげて本格的に泣き始めていた。


「あ、その・・・強引過ぎました。ゴメンなさい・・・」


「違うの。まるで理想的な王子様ね、クロガネさん。びっくりしちゃう」


「そ、そう?」


「これで男の人だったら」


 少しだけ背の高いアカリが金森の背を優しく叩いて落ち着かせようとしたが、金森が力を抜いて膝を折る。


「か、金森さん、ごめ、無理」


 完全に力が抜けた女一人抱えるには非力なアカリが一緒になって地面に引っ張られる。とにかく頭を打たないよう重量に逆らったものの座り込ませるだけで精一杯で、金森の方は泣き続けている。


 そのままでいるわけにもいかず、アカリは後頭部を掻く。


 自転車を倒したままでは車が通れない。とりあえず、あそこのコンビニに理由を説明して自転車を置かせてもらう他あるまい。










 月も星も今日はよく見える。


「ごめんね、クロガネさん。そこ左に曲がったアパートの2階なの」


「そっかあ。ちゃんとしたとこで早く休まなきゃねー」


 ずり落ちてきた金森を「よいしょ」と背負い直してアカリは気合を入れて歩く。泣く女を背負ったものの限界は近い。体力的にも、眠気的にもだ。


 階段の前まで来るとさすがに金森は地面に降りた。少しは元気になったらしく一応歩いて階段を登って行った。後ろから落ちてこないようにアカリはついて行く。


「あ」


 日付を超えた時間。アパートの廊下で少女が1人立っていた。扉に向かって何か書いていたが、金森を見ると表情を険しくして走ってきた。そして狭い廊下で金森とアカリを突き飛ばして階段を駆け抜けていく。


 驚きでその小さな背中が消えていくのを見送っていたアカリは、金森の溜息で前方に目を戻した。


 歩き出した金森が立ち止まって鍵を回したのは少女が立っていた扉で、アカリは扉に落書きされた強烈な光景に目を丸くする。


「いつもの事だから」


 淡々とした金森はアカリの手を取って玄関に引きこんだ。


「あ、自転車の鍵、ポストにいれておけばいい?」


「待って、クロガネさん。今から店に戻ってバイク取りに行くにも、コンビニ行くにも遠いでしょ。泊まって。じか寝になるけど」


「いや、明日も学校だし朝早いから」


「鍵を玄関に置いておくから閉めてポストに戻しておいて。いつ出てくれても構わないわ。もう1時だし、店まで帰ったら家に着いたら3時くらいじゃない?」


 体力も力も無いアカリでは金森を背負って颯爽と進む事はできず、辿り着くまでに時間がかかってしまっていた。身軽になった今ならピンクボンバーまで走ればコマキの家に泊まって2時まで眠れるだろう。ただ、喋る気力を捻り出している様子の金森を見てアカリは思い直し靴を脱いで扉の鍵を閉める。


「分かった。じゃあ、多分寝てる間に出る事になるけど泊めてもらうね。金森さん早く寝よう。タオルだけ貸してくれる?あ、私何処でも寝れるから片付けとかいいよ。もしかしてお腹とかすいてる?晩は食べた?」


「大丈夫、もう寝るし」


 抵抗する金森を引きっぱなしだった布団に押し込んで、その辺りにあった洗濯物からバスタオルを拝借する。


「泊めてくれて、ありがとう。眠いし私も寝るね」


「ええっと、クロガネさん、なんか迷惑かけて今日は」


 片膝をついて、アカリは金森の頬に軽く手を当てる。


「おやすみ、金森さん」


 しんどそうに、だが笑って金森は「おやすみ」を返す。


 アカリは、さて、と何処に寝ようか辺りを見回し適当に物をよけて転がった。




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