ライフオーバー 9




 まだ人通りを感じない早朝の澄んだ空気を吸い込んだ。時は7時。自転車を押して駐輪所に入ったアカリは金森のアパートを見上げる。年代物の建物はとても若い女が一人暮しという雰囲気ではない。アカリは眉を寄せて溜息をつく。


「あらん?どうしてこんな所にアカリちゃんがいるのん?」


「あえ?うわっ・・・」


 急に現れた気配に名前を呼ばれて振り返れば、至近距離に見上げる程の大きな女が顔を寄せており、軽くたたらを踏んで自転車ごと後ろに下がった。


「カナちゃん?おはよう、珍しい所で会うね」


 ニッコリとピンクボンバーのカナは笑顔で応える。


「バーから遠くもないけど、単に通りかかる場所でもないものね。あたしは友達の所から朝帰りだけど。それでぇ?そのチャリ、見覚えあるわね。キャバ嬢の金森のじゃないかしら」


「泥棒ではないよ」とアカリが前置きをして昨日の経緯を説明すると、カナは呆れた顔になって溜息をついた。今は特に呆れられる話をしているつもりがないアカリは首を傾げる。


「何かおかしかった?」


「いや、それでアカリちゃんのせいでもないのに自転車回収してやって、おまけに粥までこしらえて。男のそういうフェミニストなら下心ありで納得するけど、女のアカリちゃんが普通そこまでするぅ?」


「本当なら病院に連れて行ってあげたいんだけど昨日本人に断られて、せめてこれぐらいはと思って」


 髪を仕事用にセットしたままのカナは頭が痒いのか指で掻きまぜながらアパートを見上げた。


「別にソツのない人助けだと思うけれど。まるで児童用冊子の王子様みたいな」


「え、そうなの?っと」


 自転車を止めて鍵を手に収め、前カゴから袋をつかんで「じゃあ、私まだちょっとやることあるから」とアパートの階段を登っていくアカリ。カナは当然の様にその後を付いて来る。


 カナの行動に謎を抱きながら、アカリは金森の部屋の前で立ち止まると手の平を彼に向けて「待ってね」と声をかけた。カバンを壁に放って、袋から出したペットボトルの蓋を開けるとおもむろに扉へぶちまけた。


「ちょ、王子なアカリちゃん、ご乱心」


 アカリはペットボトルの蓋を閉めてカバンを持ち上げた。無造作に自転車の扉の真ん中についたポストに落として、歩きざまに小窓の張り紙も破き取った。眉を寄せてカナが近づいて見てみると、書き殴られていたらしきスプレーの落書きが蒸発する様に黒い靄を出しながら滲んで消えかかっていた。


「揮発性の高い分解液を持ち出してきたんだ。朝早いから学校に忍び込むのに手間取っちゃった」


 破り取った紙にはえげつない言葉が並んでいた。『体売れ』『金返せ』『クズ』。アカリは無表情で握り潰してポケットにしまう。


「普通そこまでしてやる?別に友達ってわけでもないでしょうに」


「見るに耐えなかったから」


 夜はよく見えなかったが、朝に金森の部屋を退去して鍵をポストに入れようと扉を振り返れば一面に罵倒の文字が書き連なられている。昨夜の少女を思い出した。だが、彼女が書いたと思わしきマジックの文字は扉の下の方で、少女らしい丸い文字だった。明らかに別の大人による悪意だ。


 カナは別の場所をコンと叩く。そこには薄っすらとスプレーを消した跡があった。懸命に痕跡を磨いたのだろうが残念なことに文字は読める。


「消しても無駄って事よね。金森ってさぁ、親の膨大な借金でキャバ嬢やってんだってさ。親も何処に売り飛ばされたんだが十代から会った事ないらしいわ。体売れとか、もうとっくに売ってるってね!しょっぱい人生してるくせに、いつか王子様がとか夢見てんのよ。幸運つかめずに泥沼にはまってく女って感じよね」


 下の階で金切り声が届く。カナが階下を覗き込みながら言葉を続ける。


「あんな次女がいるんじゃ運も吸い取られるでしょうけど。そこだけは同情してやるけど」


 アカリが廊下の手すりから身を乗り出すと、ランドセルの少女とスーツの男が揉めている。『借金』とか『売る』なんて単語が耳で拾えた。


 夜深くの不気味なアパートの廊下で目が合った少女を思い出した。


「あたし、実家が金森と近かったのよねえ。あれ、金森の義妹よ。前妻の連れ子」


 カナが言い終わるより前に、少女と対峙した男が振り上げた腕に気をとられてアカリは手すりに膝をかけた。ためいらいもしない動きでアカリはそのまま2階から飛び降りる。


 地上に到着した途端にアカリはバランスを崩して前に転げた。


 それも特に気にする事無く立ち上がったアカリに、少女もスーツの男も目を剥いた。


「な、なんだ、お前」


 少女の方もしばしは呆けたが、切り替えるのは早かった。険しかった名残のある顔を一変、か弱い涙を浮かべた表情でスーツ男の手を弾いたかと思うとアカリに駆け寄ってすがりついたのだ。そして、アカリが何を言うより早く少女は叫んだ。


「お姉ちゃん!助けに来てくれたのね!」


 あまりにも強い腹への熱烈なハグで「ぐふぉっ」とアカリは腰を折る。男の方も合点がいったとアカリに向けてギラついた目を向けた。


「ああ、お前が金森の長女か。俺もついてねえよ。呑み直して寝ようって帰り際にパシリの仕事押し付けられて、てめぇは居留守で出てこねえしガキは絡んできやがる。おい、出てきたからには金かき集めてきたんだろうなあ。とっとと返さねえなら妹の方を働かせっか?あん?」


 何か勘違いされているが、とにかくアカリは腰にしがみついた少女の肩に手を回して、この借金取りと確定した男を真っ直ぐと見返す。


「借りた物を返すという法則は私も賛成だけれど、借りたのはご両親のはずだ。こんな催促は違法だよ」


「親の不始末は子供も背負って然るべきだろうが。ああ?最近のガキはモラルもねえなああ!!」


「仮に子供を乱暴で正す場合にもルールはある。モラルの定義なら私の方がきっと多めに賛同が得られると思うんだ」


 借金取りが大股で腕を振りかぶる。


「金を借りたら返すってのが古今東西誰でも納得するモラルなんだよ」


 拳を見上げていたアカリの手が下に引かれる。


「こっちよ、お姉ちゃん!」


 少女はアカリと繋いだ手とは逆で借金取りに砂を投げつけた。


「この、糞ガキ!!」


 手を繋いだまま走り出した少女の後頭部を前に、アカリは左右で交番を探す。


「何処かでおまわりさんに電話を」


 小学生しか入り込もうと思わないような路地に、しなやかな動きで飛び込んだ小学生に引きづりこまれ、アカリも壁に激突しながら間に入っていく。隙間で立ち止まった小学生がアカリを燃やし尽くす目で見上げた。


「止めてよ!馬鹿な大人、知らないの?この程度で捕まってもすぐに釈放されて仕返しされるに決まってるわ。相手は組織なのよ。だいたい借金取りなんて、あたしには関係ないもの。見つからなければもう乱暴だってされないわよ。ああいう手合いは負け組みが相手してればいいの」


 荒い息で胸を上下させるたびに狭い隙間でつっかえて胸が壁に潰される。息を整えながら少女を見下ろし、一度目を長くつぶってからアカリは「ああ」と声を洩らす。


「何処かで会ったね、君」


 少女が手を離して距離を取る。本屋の前で『バイト』をしようとしていた少女だ。


「それくらい逞しければお姉さんも安心かもしれないね。君に知らせておかないと。昨日、お姉さん倒れたんだ」


「あの女が?」


 少女は路地を一人で抜けて、アカリを振り返って睨みつけた。


「・・・なんであたしに知らせるの。あんな社会のゴミクズ、風邪引いたところで哀れだなんて思わない」


 ゆっくりとアカリは瞬きをする。


「お姉さんと仲悪いんだ・・・」


「興味ないわ!私の人生の囮になるために生きてさえいれば・・・」


 少女は横を振り返り、急に目を見開いて走り出した。そのすぐ後にスーツの男が路地を塞いでアカリの前に立った。


「ぶっ殺してやる!」


 狭い壁を無理やり引きずり出されて視界が変わる。少女が道の向こうに消えていくのを見ながら、体は地面に叩きつけられた。見上げれば借金取りは砂を投げつけられて目を充血させ、空をバックに拳を振りかぶっていた。


 歯を食いしばり頭を地面に寄せて軽くそむける。


 顔面に拳が入り、熱と痛みが肩まで響く。運動神経の悪いアカリだが受身だけは心得ている。だが、揺れた視界は元に戻らず心臓が大きくうねった。意識が朦朧としていく。


 借金取りが何か言っているが形にならない。こんな時だというのに。










 腹から起き上がろうとして絡まりついた何かにベッドへ押し戻された。なんとも息が詰まる、手足を押さえつけられていた。左右に顔をやればすぐに知った髪質が近くにいる。アツシはノーディアとケオンにしがみつかれ、乗られ、寝苦しいわけである。お団子状態だ。


 腕を引き抜いて髪をかきあげる。


 大の男が4人寝そべるためにベッドを寄せてある。いくらなんでもここまで密接せずとも眠れるだろうに、マワラ族と雑魚寝をすると猫になった気分だ。オトを探せばベッドの隅、器用に被害を免れ綺麗な寝相で真っ直ぐ扉の方を向いている。


 水に潜る前にする程の深呼吸をして、アツシは瞼を閉じた。今すぐ向こうに戻らなければ、取り返しが付かない。それを激しい大爆音で見開かされた。


 拘束から抜け出そうとして同時にケオンも跳ね起きる。お互いが同時にカーテンと窓を押し開き、ファシャバの町を見回す。


 その直後、眼前で屋根がオオトカゲによって破壊されている光景が飛び込んだ。既に騒然とした空気が町中に広がって火事が空を赤く染めている。その赤い空をオオトカゲが滑空していく。その背には透明でトンボについていそうな羽がたくさんはばたいていた。


 唖然としたケオンが呟く。


「なんだこれ・・・」


「何匹いるんだ!」


 下から激が飛ぶ。見下ろすと知った頭が通った。傭兵と軽装備なままのジンが騒ぎの方へ。アツシは窓枠に飛び乗り「ほっ、と」そのまま飛び降りた。地面に吸い込まれるように着地をして、すぐに体勢を戻したアツシは走り出す。


「おい、アツシ!」


 ケオンはベッドを振り返り、迷った末に弓を持ってアツシの後に続いて飛び降りた。空飛ぶトカゲは一見竜のようだが、背に無茶苦茶に植え込まれた無数の羽根が突き刺さったガラスのようで痛ましい。不自然なあの生物は恐らくキメラだろうが、あそこまで巨大な物は聞いた事も無い。


 前方にジンの背中を捕らえる。近くに小さなラーフも剣を抜いていた。空を飛ぶ相手に剣は届かない。それでもラーフは暗闇で剣を振りかぶり、その重さに翻弄される様にジンの背中に。


 追いついたアツシはラーフの剣をつかむ。


 ラーフが腕をつかまれたままアツシを振り仰ぎ、ジンも反応して振り返る。


「人が側にいる所で刃物と花火は振り回しちゃ駄目だね」


「お前っ!?」


「君達は、マワラ族の」


 最後までジンに言わせる事なくオオトカゲが甲高い咆哮をあげて全員の視線をさらった。いくつかの建物が壊れているが、まだ半壊というわけでもない。
 

 見知らぬ傭兵が走ってくる。


「キメラは確認できただけで2匹!」


「あれだけデカけりゃ1匹でも十分だろ」


 ウィリアムが弓や槍を抱えて登場して皮肉りながらジンの前に物をバラバラと落とす。だが傭兵の誰も弓には手を伸ばさず、己の武器を抜き放ったままいた。


 オオトカゲが下降して口を開け、大広場の人に襲い掛かる。それを横から傭兵が体当たりで剣を叩きつけてトカゲを再び空へ追いやる。それを追って弓兵が矢を放った。


 ジンは「やったか?」と目をこらすが、暗闇と炎の上を飛翔するトカゲに鈍りはない。もう一匹のオオトカゲが塔を体当たりで、ごっそり叩き落す。大鐘のついた部分を。


「耳を」


 誰かの声を途中まで聞きながら、アツシはケオンの頭を両手で包んで耳を塞ぐ。つんざく鐘の悲鳴が夜を叩き起こす。手を離したケオンが何か言ったが耳が麻痺してアツシは聞き取れず顔をしかめる。誤魔化し笑いでアツシは視界の開けた広場に駆け出した。苦虫を噛み潰した顔でケオンが後に続きながら弓に矢をつがえた。


 ケオンは立ち止まると表情を引き締めて弓を引き絞った。鋭く矢がオオトカゲに向かって飛ぶ。滑空していく遠いオオトカゲの顔まで矢が届いた。


「嘘だろ!?」


 誰か知らない声が驚愕の声を上げる。矢はオオトカゲに当たると弾けてパラパラ木屑となって落ちていった。オオトカゲが空中でよろけ顔を振るう。もう一度ケオンが顔面を正確に撃つと、今度は大きく体勢を崩させた。だが、やはり矢は刺さらず木の葉の如く散ってしまった。


 攻撃された方向を捉えたオオトカゲは旋回する。


「そうだ、こっちに来い。そっちは寝起きの悪いノアが寝てるからな」


 ケオンの呟きがハッキリしない。耳を揉み解しながらアツシはオオトカゲを見上げる。


「何だ、今のは」


 ジンが空を振り仰ぎ、アツシらの近くに立つ。ケオンは新しい矢を2本指に挟んで1本をつがえる。その矢の先には刃がなく、代わりに丸い石がついている。


「これか?打撃用に作った矢だ。刃先がないから怪我しないし、縦に衝撃を受けると細かく割れる木を使ってる落下対策付きだ。それとも弓の方か?これはアツシが改造した複合」


「どうして、あの子達あんなに」


 解説しようとしたケオンだったが、呟きをもらして急に走り出したアツシに意識を奪われた。ケオンもすぐに後へ続く。その後にウィリアムが横へ並んでケオンの肩を捕まえながら走る。


「おい、ちょっと、ちょっと待てって、弓使いっ。このタイミングで消えるとか、ありえねえだろ?前みたいにキメラのどたま打ち抜いて叩き落してから行けよ!」


「自分でやってくれよ。アツシを見失うだろ!」


「おいおいおい、あんな化物に普通、弓なんか届かねえよ!優先順位を考えりゃ解るっしょ。大量に死体が出来る前に共闘だろうが。町の囲いがやられりゃ外にいる夜行性の化物度もが血の匂いに誘われて飛び込み参加してきやがるぜ!」


 ケオンの前に回りこんだウィリアムが腕を広げて道を塞ぐ。


「あの化物の滑空に矢を当てられる奴なんて他にいるわけねえんだって!!」


「そうなりゃ、お前だってタダじゃ済まねえぞ、土着民っ」


 後ろからチャンドラもケオンに追いついてきて挟まれる。だがケオンは足を加速すると170cmを超えるウィリアムの上へ跳躍した。肩を台にされてウィリアムはチャンドラに頭から突っ込んだ。


「おぅっわっ!?」


「はあ!?」


 絡まって倒れる2人を振り返りながら、ケオンは「あっぶね、大丈夫か?悪ぃな」とだけ言い捨て、先行するアツシを探す。そのアツシは屋根に立っていた。オオトカゲにでも狙い撃ちにされそうな目立つ彼は耳に両手を当て音を聞きながら辺りを見回している。壁を登ってケオンが屋根に膝をつき、向かってきたオオトカゲの鼻先に矢を飛ばす。たまらずオオトカゲが頭上を旋回して上昇し、鳴き声をあげた。


 もう目覚めていない人間などいない有様だ。路上にあふれる人だかり。さすがに屋根にいる者は他に見当たらないが。


 アツシがケオンの肩をつかんで腕を一方に伸ばす。


「あっちの子が何か見つけてる」


 2匹の内の1匹が一箇所を見下ろし留まっている。無闇に飛ぶ相棒とは違い、その真下に飛んでは空中で距離をとり、吼えている。明確に何かを狙っているらしい。


「もう1匹の子も挑発できる?あっちに連れて行ってみよう」


「あえて必要ないだろ!また来たぞ!」


 激昂したオオトカゲがケオンに向かって飛んでくるのを、2人は屋根から飛び降りて避ける。オオトカゲが建物に着地すれば上から建物が崩れて塊が追ってきた。それをまた跳んで回避して走り出した。


 道に不気味な影ができて、豪快にオオトカゲが屋根に着地しながらジャンプして追ってくる。


「狭い路地がある。あそこなら奴は入れないぞ」


「駄目だよ、ケオン。建物を上から崩されたら逃げ場がなくなる」


 極最近それで殴られたわけだ。


「住宅街からはずれてきたのが救いだなっと」


 ケオンはステップを踏んで背後へ弓を射り鼻先を打つ。オオトカゲは遂に地面に落ちて転がり、道の真ん中に這いつくばった。周りにいる少ない人影は間近に迫る脅威を目にして逃げ惑っていく。曲がり角まで来ると息を整えながらケオンは立ち止まり、オオトカゲが立ち上がって地響きを上げて追いかけてくるのを確認してから逃げる。


 町の端の職人工房が並ぶ大通りに出る。


 そのど真ん中の空中に2匹目のオオトカゲがいた。その下にいたのは大きな人影だった。すぐ後ろから土煙を上げるオオトカゲが建物を崩して飛び出してきた。


「前門の竜に後門も竜か。これで火でも噴かれた日には超ファンタジーだよ!」


「またアツシは訳のわからんことを。おい、後ろ跳ぶみたいだぞ!」


 地面を割って風を切る音を見上げ、そのまま押し潰そうとする影を2人は両側に跳んで避けた。そこで2匹目に襲われている人影の正体が判明する。


「オブリ!?」


「うおう、誰だあ?ああ!?また化物が増えたぞう!」


 目をしばたかせるオブリの胸にはオオトカゲを小型化した子供がいた。小さいとはいえ、巨体のオブリが体一杯で抱き潰しているワニに相違ない猛獣の外見だ。アツシはオブリに駆け寄ってオブリの抱いているオオトカゲの子供の頬に手を当てた。


「君が原因か」


 ケオンは追ってきたオオトカゲに矢を2回連射して、オブリに襲いかかる空のオオトカゲの横腹へ矢を放つ。よろけた所へ追撃し、羽根が平衡感覚を保てなくなると、トドメの1発で建物へ撃沈した。


 ザワザワとした声が近づき、傭兵がこの場に集結しだす。


「いたぞ!キメラ2匹だ!」


 地面にいたオオトカゲは、敵が増えたので空に再び飛翔し、もう1匹も復活して空へ逃げる。


 子供がヌイグルミを抱く無邪気な顔でオブリは血まみれになっていた。凶器となりえるワニ口をアツシは両手で挟んでオブリを見上げる。


「オブリ、この子を返さなければ。きっと彼ら、この子のご両親なんだ」


「そうなのかあ。そういえばソックリだもんなあ。でもなんであんたはオイラの名前を知ってんだあ?」


「前に自己紹介した仲だからね。とにかく危ないから、その子を」


「アツシ、行ったぞ!」


 ケオンの声に顔を向けると、大口を開けたオオトカゲが迫っている。素早いケオンの矢がオオトカゲの体勢を軽く崩すが、強引にオオトカゲは前に出た。アツシはオブリから子供を奪い取り、両足でオブリを蹴り飛ばした。軽く後ろによろけて倒れるオブリをかすって、オオトカゲはアツシを跳ね飛ばす。


 地面を盛大に転がったアツシは、腕を突っ張って頭を内に曲げ、胸の中の子供を庇って壁にぶつかり止まる。


「アツシ!」


 顔をあげたアツシが子供をすぐさま見下ろすと「きしゃー!」と奇声があがった。元気らしい。「良かった」と更に顔を上げると、アツシを庇う位置で剣を構える男が仁王立ちとなった。


「一体、何を見つけた。腕の中の生き物はキメラか」


「ジン、この子を連れて親御さんを森へ誘導する。怒りの原因は子供だ」


 オオトカゲは空で円を描き、そのまま再びアツシに向かって、我が子に向かって突撃をする。


「ケオン、ちょっと待ってもらって!!」


 立ち上がりながらアツシが子供を抱き直す。一匹をケオンが矢の連弾で軌道をずらさせるが、別のもう1匹が飛んで来る。


「なんのつもりなんだよ、マワラ族!!キリがねえ、早く殺せ!?」


「仲間も死ぬぞ!」


「非道殺生はしないと言った!食べるつもりのない獣は狩らん!!」


「ふおおお!!」


 オブリがオオトカゲへ横から体当たりする。もう1匹の軌道もわずかにズレて建物の間の路地へ突っ込んだ。ジンはアツシの腕をつかんで立ち上がるのを助ける。「おっと、ありが・・・」とう。という言葉をアツシが言い終わる前に子供オオトカゲがジンの腕に奪われていた。


 そして、そのままジンが地を蹴る。


 町の外側に向かって。


「おい、あれ、罪子がっ・・・」


 傭兵から声が上がって、アツシの上をオオトカゲ2匹が飛んで行く。それをすぐにアツシは追った。矢がオオトカゲに何発か当たりスピードを落す。軽く振り返ると、矢を構えるケオンがいて、アツシは前へ視線を固めた。


 やはりオオトカゲは子供を追った。後ろから追ってくる矢に苛立って片一方がたまに引き返す以外には目もくれない。


 門をくぐって町を出れば、走るジンに追いついたアツシがジンの背を押して街道をそれる。


「街道じゃ目立ち過ぎる。こっちに、ジン!」


「はあっ!はあっ!」


 森や草が暗闇の中で音をたて、子供が鳴き声をあげて親を呼ぶ。整えられていない獣道を進んでいくアツシをジンが途切れ途切れに呼ぶが「まだ」と「まだだよ」だけしか返らず、ついに急な崖ともいえる場所で行き止まった。


 アツシはジンから丁寧に子供を抱き上げ「よしよし、ごめんね」と揺する。そこからもう一度しっかりと抱きなおして巨木に手をかけた。


「次は、一体、何をする気だ。木に、登ったりすれば、逃げ場など」


 息切れをしながらジンがアツシの肩をつかんで留める。森に月明かりなど届かない。表情は見えないが、頭を振るアツシのシルエットだけはジンにも分かった。


「彼らは大事な子供を取り戻して家に帰るよ。きっと子供のために俺には目もくれずに飛んで行く。可愛い子供が奪われないよう遠くの彼方まで」


「ならばそれをやるべきは俺だ。知らぬ事だろうが、俺にはキメラに関わる全ての災いを肩代わる使命を」


「さっき、庇ってくれてありがとう」


 巨木に苦労しながらアツシは登り始める。片手でワニの如き子供を抱えながら。


「クォーレル国の誇り高き守護者さん、俺はマワラ族の守護者だ。ケオンは俺を信じて彼らを撃ち殺さなかった。君も信じて、ジン。誰も死なない結末を」


「マワラ族・・・」


 太く肥えた木の筋が荒いのが幸いして、暴れる巨大生物を抱えながらでも上の方へ這いずって登りきれた。夜の闇でも目が慣れて月明かりだけで子供の姿をハッキリと確認出来る。羽など存在しないザラザラした自然の姿。この子供は親達の様に空を飛んだりはしないのだろう。


 片腕で成人の男並みに大きな子供を抱えながら、アツシは上着を脱いで上半身を露わにした。脱いだ服を片腕に巻くと、子供を肩になんとか抱える。


 太い木の枝に立ち、子供を目指して飛んでくるオオトカゲを真っ直ぐ見つめた。外敵に奪われた後には子供を食べてしまう生物もいるというのに、ここまで戦う愛情深いオオトカゲのキメラ。今度こそ逃がさないと立派な口を開けて飛んで来る姿は、ただの親だ。


 自然と笑みが浮かぶ。


「ごめんね、お子さん勝手に連れまわしたりちゃってさ。しっかり受け止めてね?」


 アツシは身を捻って崖に向かい子供を放り出した。その巨体を投げた反動でアツシは枝の上でバランスを崩す。オオトカゲは迷わず軌道を変えて崖に落ちていく子供を追った。その巨体の尻尾がアツシのいる木をへし折った。アツシは足を踏み外して直落下する。


 葉も枝も折りながら落ちてくるアツシに、下で待機しているジンが緊迫した空気を持って身構える。


 ぶつかる。


 アツシとジンの距離が縮まった瞬間、アツシは空中で跳ねて一回上昇した。目を丸くして唖然とするジンの目の前で何度も跳ねながら片腕で何かにぶら下がっており、ついに耐え切れなくなった何かが千切れると地面にアツシが着地した。


 呆然としたジンは、これだけは口にした。


「何が、起こった」


「うっわぁ、予想外に伸びたなあ。さすがマワラ族の編みこみ技術は伊達じゃないね。というかこの服、どこの素材使って作ったんだっけ?いくらなんでもバンジーに適し過ぎだったんだけど」


 上半身を裸のままにして生い茂る枝を見上げるアツシに、ジンはゾッとして厳しい口調で「上着か」詰問する。


「・・・まさか、なんて浅はかな」


 倒れかけている木が場所をあけたお陰で空が見えた。崖から巨大なオオトカゲ2匹が再び鳴き声をあげて空へ上昇していく。そのまま町とは逆の方向へ向かって飛んでいた。その手の中に何がいるかまではここから見えない。


 町から流れてくる焦げた匂いはかすかに届くが、とても静かだ。


「ジン」


 アツシは不意にジンの手を取って頭を傾ける。


「ユクレイユ地帯に罪子の概念はない。キメラはただの獣の一種だし、大概の国からすれば辺境で未開の奥地だ。どの国との外交をしているわけでもなければ、安定もしていない文明からは程遠いかもしれない。俺はね、少しでも便利な道具を作り出して生活を安定させたくって旅に出たんだ」


「俺を罪子と知っていたか。隠していたわけではなかったが」


 残った手も取った。


「ねえ、不便はするかもしれないけど集落に来ない?このまま消えてユクレイユ地帯まで逃げ切ればジンは、ただのジンになる」


 沈黙が落ちる。ジンは小さく笑ったらしかった。


「マワラ族とは余程気の優しい部族らしい」


「千載一遇のチャンスだと思って」


 ジンは町の方角に向かって歩き出した。だが、すぐに立ち止まって半分振り返る。


「キメラという脅威にさらされた者の責めから逃れたとて何になる。憎む相手がおらねば感情を迷わせる者もいよう。罪を浄化することは叶わん。俺ができるのはただ、この命尽きるまで贖罪をまっとうするだけだ。俺はこの使命を受け入れている」


 少し間をあけて、アツシは溜息をついた。


「コマキちゃんの言った通りか。残念だ。けど誇り高いクォーレルの守護者には非礼だったかな。変な事を言い出してゴメンね」


「いや・・・それは」


 アツシが膝をついて、それをジンが目を見開いて慌てて立たせようとしたが、そのままアツシは横に倒れた。


「マワラ族!?」


 駆け寄ってくるのが草の間から見えたが、アツシは「違う、ごめん、眠りが」と口にして目を閉じてしまう。ジンが心配している。駄目だと思うが、遠くで別の誰かも心配して呼んでいる。抗いがたい重力に負けて落ちていく。土をもぐって闇を超えて、深い別の世界へ。










 呼ぶ声で目を開いた。


 視界にいたのは借金取りではなかった。いるのは青いのか赤いのか判別できない心配と怒りをない交ぜにしたコマキの顔だ。長い髪をひとまとめにして化粧を落としているせいで、男として生活していた学生時代のコマキを思い出した。


「目が覚めたら簀巻きかなと思ってたんだけど」


「警察呼んだ。そこに殴り倒してあるわ」


「さすが空手3段」


「2段よ」


「でも助かったぁ。女の体ってどうも不便で仕方無いんだよね」


 顔の表面に電気が走り、右目が開けにくいので片手をやると顔が腫れている。触った瞬間には強めの電気が走った。


 コマキがアカリの髪をかきわけて耳にかけながら歯を噛み締めた。


「酷い腫れ具合ね」


「ああ、これくらいなら2日で痛みが引くから大丈夫」


「いい加減にしなさいよね。あんた忘れてるかもしれないけど今は女の子なわけ。病院は絶対に連れてくからね。仕事明けの朝っぱらから心臓止める気だとしか思えないわ。カナから電話があった時は」


 額に手を当てて目を瞑ったコマキが黙る。アカリは焦って上半身を起こす。


「心配かけてゴメンね。これでも受身はとったから頭の中身は大丈夫だとは思うんだよ。ただの脳震盪のはずなんだ。あっちの世界が騒がしいせいで呼ばれたせいもあったかも。なんせドラゴンが2匹ばっかり町で暴れてたもんで」


 憮然とした顔になったコマキに、アカリは言葉を詰まらせて舌を出して目をそらす。学校には休むと電話をかけるしかなさそうだ。金森ではなく、自分が病院に行くはめになるとは。




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